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メッセージ 平和を築く愛の花束 ヨハネの福音書13章34-35節

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。 ヨハネ 13:34 - 35                    先日友人がとても素敵な本を贈ってくれました。ご存知の方も多いかもしれません。モーリス・ドリュオン作の『みどりのゆび』という本です。児童文学ですが、大人こそ読むべきと思える素晴らしい反戦の書です。この本が伝えているのは「愛の力」だと思います。愛の力を突き詰めた結果、反戦の書となっていると言えるのかもしれません。  ネタバレになってしまいますが、少し詳しくこの本について紹介させてください。 主人公のチトという子供は、画一的な学校の教育に馴染めず、両親の判断で独自にいろいろな大人について教育を受けることになります。あるとき庭師について園芸について学んでいたチトは、その庭師から「みどりのおやゆび」を持っていることを見出されます。チトのおやゆびをもってすると、瞬く間にあらゆる種が実を結び花を咲かせるのです。  チトはいろいろな大人について街を見回りますが、そこには花を必要としている多くの場所があることに気づきます。そしてチトは刑務所に、また病院にみどりのおやゆびを使って花を咲かせ、そこにいた希望のない人々に生きる希望を与えるのです。  チトはあるとき戦争の噂を聞きます。チトは始め戦争が何を意味するのかを知りませんが、大人がひそひそと話しているのを聞いてこのように思います。 「戦争というのは、ひとびとがひそひそ声でしか話さないから、きっと正しくない、みにくいことなんだ、よっぱらいよりもたちのわるいおとなの病気なんだ、貧乏よりもひどくて、犯罪よりも危険なんだろう」(モーリス・ドリュオン作、安東次男訳『みどりのゆび』岩波書店、 1977 , 125 - 126 頁) チトはその後、その物語の中で起きているバジー国とバタン国の戦争についてより詳しく聞き、考えます。   ≪もしぼくのききちがいでなければ、バジーとバタンは石油のために戦争を始めようとしていて、そのわけは、戦争にはどうしても石油がいるからだ。≫そこまでかんがえて、チトは目をあけまし

メッセージ 聖霊に導かれる歩み 使徒の働き2章1-3節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。 使徒の働き 2 章 1 - 3 節    もうすぐ聖霊降臨祭(ペンテコステ)ですね。これはイエス・キリストが復活し、天に昇った後、聖霊が降った時のことを記念した日です。その日を記録した記述が、上に引用した聖書箇所です。ペンテコステは五旬節を表すギリシャ語に由来した言い方です。  イエス様は生前、このような約束をします。「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」ヨハネの福音書 14 章 16 節。この約束が成就されたのが聖霊降臨の出来事です。イエス様は死とともにご自身の霊を引き渡されましたが、その神の霊が、皆に与えられるものとなりました。これは私たちにとっても例外の出来事ではありません。コリント人への手紙第一 12 章 3 節には次のような言葉があります。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』ということはできません。」人がキリストを信じることは、聖霊の働きによるのです。  イエス様はこの聖霊を「助け主」と呼びました。私たちの内におり、同時に私たちを包む人格化された愛、それが聖霊です。この聖霊に導かれて歩む道が、キリストを信じた者の道です。聖霊は私たちを正しい方へと導く、神様の GPS のようなものです。この GPS に正しく導かれ歩むとき、キリスト者の人生は神の栄光を余すことなく光り輝かせるものとなります。  私の大好きなキリスト者に、マザー・テレサとジョージ・ミュラーがいます。マザー・テレサはご存知の通り、「神の愛の宣教者会」の創立者であり、貧しい人々の隣人として生き抜いた人です。ジョージ・ミュラーは 19 世紀、イギリスで多くの孤児院を設立した牧師です。彼は、「聖書に記された神が今生きていることを証する」ために生きました。ミュラーは祈りと信仰のみによって、次々と大きな孤児院を設立し、多くの孤児たちを救いました。  貧しい人々を救ったマザー・テレ

メッセージ 主は生きておられる 詩篇18篇46節

主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神。 詩篇 18 篇 46 節   主のご復活おめでとうございます! 「主は生きておられる。」この言葉は聖書の中に何度も何度も登場します。人が主を信じるのは、聖書が単に「良い価値観」を示しているからではありません。それが現実だからです。神学者であり、ナルニア国物語の作者の C.S. ルイスは「キリスト教は、もし偽りであるなら、まったく重要ではなく、もし真実なら無限の重要性を持つ教えである。ただ一つありえないのは、ほどほどに重要であるということである。」(ニッキー・ガンベル『アルファ人生の疑問』アルファ・ジャパン、 2003 年、 16 頁。 / C.S. Lewis, Timeless at Heart, Christian Apologetics )と述べています。キリストは現実だからこそ、重要なのです。 例えば、人は生きるのに酸素を必要とします。それを知っていながら、「人に酸素は必要ない。」「人は水素だけを吸って呼吸する。」「酸素が必要な人もいればそうでない人もいる。」というような発言をする人はいないのではないかと思います。キリストを世に送った神がいること。キリストが現実に地上を生き、今なお復活して生きているということは、紛れもない現実なのです。だからこそ、その啓示である聖書も事実を示しているのです。これが真実ならば、中途半端な重要性を持っているのではなく、真実としての、無限の重要性を持っているということなのです。 私たちが主を信じているのも、「現実に」「生きている」キリストに出会ったからだと思います。風は目に見えないけれども、確かに存在していることがわかります。それと同様に、目には見えないけれども、心に圧倒的な光をもたらすキリストが確かに存在すると確信することができるから、私たちはキリストを信じたのです。   ここ数年、また最近は特に、いろいろなニュースによって将来に不安を抱える人、情報に混乱してしまう人、希望を失って日々を過ごしている人も多くなってきたように思います。しかし、主は既に「世に勝った」と聖書に宣言しているのです。先のことは人にはわかりません。けれども、先のことは心配しなくても良いのです。なぜなら、「神があなたを愛している」からです。 キリストがなぜ

メッセージ あなたが宣教師 マタイの福音書28章19〜20節

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。 (マタイ28:19〜20) 500年前、宗教改革者達は万人祭司という言葉を主張しました。しかし、制度としての教会の在り方は非常に強固なものだったので、文字通りそれを実行するのは非常に難しく、今なお能動的にキリストを伝える役割と受動的にそれを受け取る側の役割というものは続いています。  もちろん一人ひとり役割があるので、皆に伝える働きをするため特定の人が聖書について深く学ぶ時間を多く持つことにも意味があります。  しかし、献身を決意し神学校で学びをし、教会で奉仕してから、私は聖職というものについて多くのことを考えさせられるようになりました。まず、当たり前ですが、教職者や聖職者、つまり牧師や司祭は同じ人間であるということです。人には皆弱さも罪もあります。しかし現状牧師が人間として信徒を頼り、パーソナルな相談をするのはなかなか難しい状況があります。どうしても聖職者が信徒と対等な関係を築くのは難しく、教会には、あくまでも教える立場と教えられる立場という関係性を崩せないものがあるのです。  また、神学や聖書学を学べば聖書について理解できるかというと、そうでもないということも神学校やその前に神学を学んでいた経験から感じる面がありました。勿論無意味ではありません。時間をとって聖書と向き合うことができることや、原語や時代背景や様々な解釈を学ぶことが聖書理解の助けになることも大いにあります。しかし時にはそのようにして得た知識が素直に信じることの妨げになることもあります。聖書が「聖書」として現在私たちの手元にあるということに神様の働きを認める必要があるのだと思います。  このようなことから、聖書の神髄というか、聖書理解において最も大切な、書かれた神様の意図は、勉強して得られるというものではないのだと私は感じました。  不思議なことに、私が聖書と親しくなったと感じたのは神学校を出た後のことです。聖書が本当に私を助ける言葉を与えてくれると心から感じて読むようになってから、繰り返し聖書全体を読むようになりました。そして聖書全体を読むほどに聖書の細かな

メッセージ あなたの光 イザヤ60:1

  起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。イザヤ書 60:1-3                                                                                 今年もクリスマスの時期がやってきました。キリストを信じる者にとっては、暖かな希望に溢れる時期だと思います。  今年もいろいろなことがありました。特に、コロナウイルスの流行に加え、ウクライナとロシアでの戦争は、私たちの心を大きく騒がす出来事だったと思います。  日々のニュースを見ていると、世の中では悲しいことばかりが起こっているように思います。しかし、実際世の中には悪いことよりも良いことのほうがずっと多いのです。 神様は「良い」神様です。そして私たち一人一人をこの上なく愛しています。それを心から信じるとき私たちは何かが起こった時にそれを前向きに捉える選択ができるのだと思います。  生きていれば、日々の生活の中で時に些細なことでも心が動揺させられることもあります。多くの場合落ち込むきっかけになるのはそのようなことかと思います。私にはこのことを考えさせられるのに印象的だった出来事があります。 私が神学生の頃、卒業間近、修士論文の発表会がありました。これは最終的な提出前の第一稿の段階で行うものでした。発表を行うと指導教官をはじめとする先生方が改善点を多く指摘してくださいました。正直それまでいくら原稿を送っても一向に指導教官から具体的なアドバイスを得られず不安だったので、そのとき、やっと何か言ってくださったと安堵の気持ちを覚えました。また先生方がかなりいろいろなことを仰ってくださったことで私の論文に対して関心を持っていただいていることが伝わり嬉しさもありました。 ところが終わった後、二人の学生から立て続けに「かなり強い口調でいろいろ言われていたけれど大丈夫か」と心配されました。そのころ神学生の生活があまりにオーバーワークでバーンアウトしていたころだったので、その心配の言葉を聞いて不安定だ

メッセージ 全てを益とする神 ローマ人への手紙8章28節 

  神を愛する人たち、すなわち神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。ローマ人への手紙8章28節  今これを読んでくださっている方は、それぞれいろいろな状況の中で日々を過ごしていらっしゃると思います。  聖書に登場する人物は、順風満帆といった人生を歩むことは殆どありません。真直ぐに神を信じたものほど迫害に遭い、迫害者から逃げたり、大きな試練を通りながら歩みます。 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」 と第二テモテの三章にあるとおりです。しかしそのような信仰のある人々は皆、生ける神の介入により、代えがたい喜びを得て生きています。ヨセフもまた例外ではありませんでした。  ヨセフは旧約聖書の族長時代に生きた、ヤコブの子供の一人です。イスラエルに生まれたヨセフには兄弟が多くいましたが、ヨセフの兄たちは父親が彼をだれよりも愛しているのを見て、ヨセフを憎んでいました。ある日ヨセフは二つの夢を見ます。一つは畑で束を作っているとヨセフの束が起き上がり、兄たちの束が周りに来てヨセフの束を伏し拝むというもので、もう一つの夢は、太陽と月と 11 の星がヨセフを伏し拝むというものでした。これらの夢についてヨセフが兄たちに話すと、兄たちはますますヨセフを妬むようになりました。そこでこの兄たちはヨセフを殺すことを企てます。   どうにかそのことは思いとどまったもののヨセフの兄たちは彼を穴に放り込み、ミディアン人の通りがかりの商人に売ってしまいました。商人はヨセフをエジプトへと連れていきます。ヨセフはエジプトの地で、王であるファラオに使えるポティファルという人物に買い取られます。ポティファルは神がヨセフとともにいてすべてを成功させてくださるのを見ました。ヨセフによってポティファルの家は祝福されました。ところがポティファルの妻はヨセフに毎日言い寄るようになりました。ヨセフが彼女から逃れようとすると、彼女はヨセフを貶め家から追い出してしまいます。ポティファルは妻に騙されヨセフを監獄に入れました。しかし「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうように」されました。監獄でヨセフは一緒に拘留されていた者たちの夢を聞き、その意味を解き明かします。ヨセフはそのう

メッセージ 生きてほしい エゼキエル18:32

  なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない――神である主のことば――。だから立ち返って、生きよ。エゼキエル書 18 章 32 節    最近若い人が自ら命を絶ってしまうというニュースを聞くことが多くなりました。閉塞感や孤独感を一層強く感じざるを得ない状況の中、苦しい思いで生きている人の心が一層蝕まれてしまっています。  今回は「誰かに届けば」という気持ちで自殺を考えている人をテーマに書きます。  「死にたい」という思いは希死念慮として鬱の度合いを測る基準のようなものとなっていますが、うつ病と診断されているかどうかに関わらず襲ってくる思いではないかと思います。行動に移してしまうかどうかは、その思いを抱いていることが要因となるので、「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは絶対に軽視できないものです。 同時に、この思いはごく限られた人のものだけではないという側面もあると思います。「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは決して異常なものではなく、傷を受けた人の持つごく正常な感覚であり、同時に「この人なら大丈夫」ということも決してないということです。  自殺は本人が相当苦しんだ結果として起こります。そしてその殆どの場合、苦しみの原因は直接的であれ間接的であれ周囲の人々、あるいは過去にその人のそばにいた人々が作っています。その意味で、自殺とは他殺なのだと思うのです。結果として直接手を下したのが本人であっても、その人をそのような行動に至らせてしまった人々による殺人なのです。つまり、「悪意」や「暴挙」「自己中心的に相手を振り回すこと」「優しさの欠如」は人を殺す力のあるものであるということです。その一つ一つがごく些細に思えるものであっても、親子関係や大人が子供に対してするように絶対的主従関係の中で行われたものであったり、深く信頼した人から行われたり、入れ代わり立ち代わり複数の人から行われたり、長期的に続いたり、多くの人が集団でおこなったり、組織ぐるみで行われていることは非常に大きな力をもってそれを受けた人を苦しめます。行った人にとってはごく小さなことと思えても、悲惨な結果を生み出す可能性は十分にあります。動機に愛の一切ない振る舞いは相手の傷になる可能性を秘めています。愛が動機でなく欲望や