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メッセージ「祈りとは」

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。 ヨハネの手紙第一 5 章 14 節 祈ったことがあるでしょうか。大切な人が病の床に瀕したとき、大事な試験の前、人生の大きな節目の時など、神様にお願いをしたことがある方もいるかもしれません。聖書の語る祈りは、イエス・キリストが啓示した神との対話です。この神は、あなたが地上に生まれる遥か昔からあなたを待ち望み、骨の数や髪の毛の数に至るまであなたをあなた以上に知っています。そして、この唯一の神は、あなたがあなたを愛するよりもはるかに深く、あなたを愛しています。  イエス・キリストは私たちの身代わりとなって、私たちの罪を背負って十字架で死にました。罪は全ての悪、また悪感情の源であり、神からではないものです。神は愛です。私たちの中にある愛から外れたものが罪です。この罪によって私たちは愛である神から断絶していましたが、イエス・キリストが私たちの代わりに罪の罰を受け、よみがえったことで私たちは再び神との関係を回復させることができました。キリストが私たちと神との懸け橋となったのです。それゆえ私たちは、イエス・キリストの御名によって神に祈ることができるのです。  「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光を受けるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」ヨハネの福音書 14 章 13 - 14 節  祈りにはいろいろな形があります。パウロは書簡で「絶えず祈りなさい」と語っています。言葉に出しても出さなくても、時には言葉にならなくても、絶えず神様に心を向け、神様と心を一つにすること、それが祈りです。その形に決まりはありません。沈黙の内でも、雑踏の中でも、祈ることができます。  イエス様は祈りについて聖書の中で何度も語っておられます。 「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも求める

メッセージ「イエス・キリストとは」

兄弟たち、私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。 私があなたがたに最も大切なこととして伝えられたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。わたしは使徒の中で最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。 コリント人への手紙第一 15 章 1 - 11 節 イエス・キリストを一言で表すならば、「福音をもたらした人」です。初めに引用したのは、福音について聖書が語っている箇所です。この言葉は、パウロという伝道者が書きました。彼は生前のキリストには会ったことが無く、キリスト者を激しく迫害する者でしたが、ある時十字架刑での死後復活したキリストに出会い、キリストを信じる者へと変えられました。パウロは新約聖書に多くの書簡を残しています。 聖書によれば、イエス・キリストは神であり、神の御子です。この方は、人の罪を贖い、人に永遠のいのちを与えるために世に来られました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びる

メッセージ「信仰とは」

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 ヘブル人への手紙 11 章 1 節  信仰とは、言い換えるならば信頼です。信仰とは、神への信頼を指す言葉です。例えば私たちは、時刻表を見てバスや電車の来る時間を知り、その時間にバス停や駅に行くことをします。それはつまり、時刻表を信用しているから起こることです。それと同じように聖書のことばを信用すること、それが信仰です。また、「あなたは大切な人です。」と言われた時、それが嬉しいならば、言われた人は「あなたは大切な人です。」という言葉を信用し、それを言った人のことを信頼していることになります。それと同じように神の言葉と神を信頼すること、神であるイエス・キリストを信頼すること、これが信仰です。  信仰は、キリスト教において要です。ただ信じること、これだけが聖書が私たちに求めることです。新約聖書のヨハネの福音書 3 章 16 節には次の言葉があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」  なぜ、ただ信じることなのでしょうか。それは、人の最初の罪が不信仰、神を信じないことだったからです。 人は神に愛されるために創造されました。人にまだ罪と死が入っていなかったとき、人は神を完全に信頼していました。創造の始め、エデンの園には人に必要なものが全て備えられていました。人は神から「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ。」と言われていました。しかし蛇の姿をしたサタンは「善悪の知識の木から食べてもあなたは決して死なず、神のようになれる。」と偽りを人に言い、食べるよう誘惑しました。人は神ではなくサタンの言葉に従い善悪の知識の木からとって食べました。 このとき人に罪と死が入りました。罪はあらゆる憎しみ、妬み、不の感情の源です。罪に歯止めが利かないとき、諍いや犯罪、戦争が起こります。人間の最初の罪は、人が神を疑ったことでした。それは人が神と、神の言葉を信じなかったこと、つまり、不信仰を意味します。  罪によって断絶された神と人との関係を取り戻すために、イエ