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メッセージ 主を待ち望む イザヤ書23章18-19節

先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。 イザヤ書 43 章 18 - 19 節    最近、「自分が自分の友達だったとしたら、良い友なのだろうか、友達でいたいだろうか」と考えさせられる機会がありました。人が誰かの良き友でいたかったら、むやみに責めるようなことも、傷つけるようなこともしないはずです。その友の存在の尊さを認め、励ますはずです。ところが、時に人は自分に対しては存在価値を貶めるようなどこか厳しいメッセージを送ってしまいます。  自分の中にいる、自分を苦しめる存在は、歩んできた道のりの過程で作られてしまうものだと思います。人は誰しも生まれたときは一切の悪を知りません。しかしだんだん社会性を身に着け、他者と関わるうちに傷つけられたり、挫折したりします。はじめはまっさらだった自分の存在が、だんだんと価値を貶められるような体験をします。そのような体験から、自分をみじめにさせる自分が生まれ、時々顔を出すようになるのです。    傷となるような体験は、意識の上でも、無意識の上でも人を束縛します。また、そのような体験は不当な扱いを受けた自分自身に罪責感を植え付けることがあります。過去の記憶が今の自分に影響し続けることがあります。しかし、しっかりと整理すべきは、不当なことをされたとき、悪いのは不当なことをする人であって、される人ではないということです。 不当な扱いを受けると、人は自分の価値が貶められるような気がします。しかし、神はあなたを世界の始まる前から計画し、母の胎に宿る前から待ち望んでいたのです。    また私には、何度か周りから「きっとこのように思われているに違いない」とネガティブな方向に考えていたことがありました。しかし、そのたびに蓋を開けてみれば全くそのようなことはなかったという経験をしました。そのような体験を通して、自分に対して意地悪な態度をとっていたのは自分自身だったのだと気づかされました。それ以来、自分は自分の最善の友でいなければと思うようになりました。神がその創造物である人に無限の価値を認めてくださったのだから、長年の体験から降り積もった塵を落として、それを真正面から受け入