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メッセージ「赦しの力 マタイの福音書18章21-22節」

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。マタイの福音書 18 章 21 - 22 節  赦しは愛と同じくキリストの存在そのものを表す言葉といっても過言ではありません。十字架はキリストが人の罪を贖い、信じる全ての者に赦しを与えるためのものだったからです。神の愛は十字架によって示されました。  今日取り上げた個所は、キリストが人に対し、無限の赦しを与えるようにと伝える箇所です。  赦される側からすれば、これは本当に美しい教えに見えます。しかし、赦す側からすれば、なかなか厳しい教えに見えるかもしれません。私たちはキリストの十字架という代価によって既に神に赦された者ですが、人生では時に赦す側の立場にもなります。深く傷つけられるほどに、赦すことは難しいものです。実際、努力では不可能なのです。  それでもキリストが赦しを人に求めるのは、赦す側の人間の真の幸福を願っているからでもあります。ここに、赦すということの奥深さがあります。  私自身、以前深い傷を負って「赦し」が非常に難しい時期を通りました。傷が深いときは、傷を負った出来事が記憶の中に何度も蘇り、それが自分自身を蝕む毒のようだと感じていました。そのような思いに束縛されていることに気付いた私は、「赦したい」と祈り始めました。苦しみから解放されたい一心でそうしたのですが、これは私の一つの決断でした。綺麗事ではなく、自分の正直な気持ちを神様にぶつけるところから始めました。何度祈ったかわからないほど長い時間がかかりましたが、神様の働きにより、赦したい人々の祝福、本当の幸せを願うことができるようになりました。つまり、彼ら自身が心から神様を信頼し、心から人を愛する、喜びの人生を送ることができるようにという願いです。そのようになったとき、私は自分を縛っていた重い鎖から解放されたようでした。私自身が赦すということが、私に喜びをもたらしたのです。これこそが、キリストが人に赦しを与えるのを求める所以の一つです。  この過程を通る間、私に励ましを与えてくれた人がいます。それは「私の隠れ場」の著者として有名なコーリー・テン・ブームという一人のキ