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高校礼拝 2013.6.22 メッセージ2 エレミヤ書29章11節

高校礼拝 2013.6.22 メッセージ 賛美歌453番 エレミヤ書29章11節 1094ページ 『主は言われる、わたしがあなたがたに対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。』 ★ エレミヤが神さまから召しを受けたとき、彼はまだ年若い青年でした。主はエレミヤに語りました。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて、万国の預言者とした。」主はエレミヤが生まれる前から、エレミヤを用いる計画を持っておられました。エレミヤは主の呼びかけに対し、こう答えました。「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。」エレミヤはなぜ年若く未熟な自分が主からこのような呼びかけを受けるのかわかりませんでした。しかし、取るに足らない者を尊ばれる主は、彼を愛してこう語りました。「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはいけない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。」そしてエレミヤの口には主の言葉が置かれました。すべてを主に委ね、エレミヤは主のみ言葉を伝えるものとなりました。 エレミヤは嘆きの預言者と言われています。主がいつも共にいることを約束されたエレミヤですが、彼の預言者としての日々は人の目には喜びの日々ではありませんでした。エレミヤは示されたとおりに主の言葉を語り続けますが、真実の言葉を語れば語るほど民の心は離れていきました。彼は人々から笑われ、誰もエレミヤの言葉に耳を傾けることはありませんでした。イスラエルの民が好んだのは、彼らの耳に心地の良いことばかりを語る偽預言者の方でした。エレミヤは神様に向かって次のように告白しました。 「主よ、あなたは知っておられます。わたしを覚え、わたしを顧みてください。わたしを迫害する者に、あだを返し、あなたの寛容によって、私を取り去らないでください。わたしがあなたのために、はずかしめを受けるのを知ってください。」 エレミヤはみことばのために、

中学礼拝メッセージ •ヨハネの第一の手紙4:7-12

ヨハネの第一の手紙4:7-12 4 :7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 4 :9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである ***************** おはようございます。早くも今週で教育実習最後の週となりましたが、皆さんとの出会いを神様に感謝しつつ、 1 日 1 日大切にすごしていきたいと思っています。   今日は、ヨハネの手紙一から、神様のメッセージに耳を傾けていきましょう。 今回読んできたヨハネの手紙は、公同書簡と言われています。それはこの手紙がある特定の人たちではなく、すべての者に宛てられた手紙であることを示しています。それはこの手紙が書かれた時代の人だけでなく、現代の私たちにも向けられているものです。この手紙の言葉は、私たち自身に宛てられたメッセージです。 今日お読みした箇所で、ヨハネは愛することについて述べています。ヨハネは私たちが互いに愛し合うべき理由は、愛は神から出たものであるから、と述べています。愛は私たちの唯一の神様の本質であることを伝えようとしています。愛の神様の創造物である私たちが、愛無しに生きることは決してできません。 私は子供のころ、愛に飢えていました。小さなころから、ちょうど皆さんの年頃になるまで、友達に兄弟姉妹として扱われない経験をしていました。そしてその頃、私自身も周りの人を兄弟姉妹であるとみることはできませんでした。 小学校に上がる前

高校礼拝メッセージ①ヨハネによる福音書11:1-4

ヨハネによる福音書11:1-4   1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人  であった。 2このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であ ったのは、彼女の兄弟ラザロであった。 3姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、」ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。 4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。 *****   おはようございます。聖書科の教育実習始がまって一週間ですが、皆さん一人一人が神様の素晴らしい栄光を顕していることに深い感動を覚えつつ一日一日を過ごしています。皆さんとの出会いは、神様がずっと前から用意してくださっていた愛に溢れたご計画であることを感じています。   皆さんの姿を見ると自分の中学高校時代が思いだされます。私もミッションスクール出身で、毎日朝礼で聖書を読み、聖歌を歌っていました。その頃はそういったことの大切さにはあまり気づくことなく生活していたのですが、こうして日々神様の言葉を聞き、それを知らず知らずのうちに自分の中に蓄えていったことは、後々になって素晴らしい光をもたらしました。 高校を卒業してから、私たちは様々な試練に出会っていくことになります。生きていくとはそういうことです。進路に悩むことや、家族を離れて大学生活を送ること、大切な人が亡くなってしまうこと・・・・・・そうした時に自分の中で蓄えられた聖書のみことばは、イエス様の言葉となって孤独で悲しみに打ちひしがれた私たちに語りかけてきます。私がどうして聖書科で教育実習を行っているのか、どうして皆さんに神様のことを伝えたいと感じるようになったのか、それは神様がどのような方かを真実に知った体験があったからです。今日はそのことを少しおわかちしたいと思いますが、まず聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。   4節「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」  この言葉はどういった意味を持つのでしょうか?   イエス様は、ベタニヤと