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メッセージ 私の内のキリスト ガラテヤ人への手紙2章19-21節

  しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 ガラテヤ人への手紙 2 章 19 - 21 節    私たちには体と魂、そして霊があります。ヘブライ人への手紙はそれをこのような言葉で示しています。 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。ヘブル 4:12  キリストを信じると、死んでいた霊にいのちが与えられます。私たちの内に聖霊、神の霊が住まうようになります。たましいは「心」であり、心がキリストのものとされていくのは私たちの生涯をかけたプロセスです。「義化」と「聖化」という言葉を聞いたことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、霊的な救いはキリストを信じたことにより罪が赦され神の前に正しい者とされた時に起こります。「聖化」は心がキリストに従っていく過程で起こります。  この聖化のプロセスは人によって異なるので、一口にキリストを信じるといっても本当に様々なキリスト者がいます。  「放縦な生き方」も問題ですが、神様を忘れて「聖なる生き方」にフォーカスすることにも落とし穴があります。ルターにより信仰による義が改めてキリスト者たちに回復された後、ウェスレーは聖化の大切さを訴えました。聖なる生き方の「方法 メソッド」に重きを置き、メソジストが生まれました。ウェスレーの主張したことはとても大切なことです。しかし、もしそれが行き過ぎになってしまい「こうあるべき」ということに縛られてしまうと私たちは律法主義に陥ってしまい、キリストにある喜びが失われてしまうのです。キリスト教世界のいろいろなところに潜む「こうあるべき」は時に人を苦しめるものになってしまいます。  キリストは「自由」をもたらす存在でした。律法学者たちは旧約の律法を正確に守るため、旧約のみならず新たな決まり事も多く作りそ