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真理はあなた方を自由にします 

説教題:真理はあなた方を自由にします  ヨハネの福音書 8 章 32 節 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」  やがて過ぎ去る目に見えるものを信じようとする人間に、目に見えないものこそ永遠の真理であることを示すために、神は聖書を人間に贈りました。 500 年前、ルターの翻訳によって聖書があらゆる人の手に渡ったとき、瞬く間に多くの教派が生まれました。それはキリストを信じる人々に真理による自由が与えられた証でした。しかし、次第に聖書の真理を追究することが、対立や争いを生むようになりました。教会の分裂を危惧したエラスムスは、教理には本質的で不可欠なものと議論の余地のあるものの二種類があるとし、その本質的で不可欠なものを探ろうとしました。このことのうちにもまた、真理があったといえるでしょう。   私はプロテスタント教会に所属していますが、長らくカトリックの大学で勉強していました。そのときいつも悲しくなる時間がありました。カトリック教会の礼拝、ミサのなかの聖餐・すなわち聖体拝領の時間です。聖体拝領は教理の問題で原則カトリック教会の人間しか受けられません。ミサに出る機会は多くありましたが、カトリックの人が好きになっていくほどに、自分だけ取り残されるその時間が嫌いになりました。ある神父の先生に私も聖体拝領が受けられないかきくと、先生は困りながら「教会で決まっていることだから、聖公会以外のプロテスタントの人はどうしても受けることができない」と答えました。しかし大学院を終える時には私が神学生となることを先生はとても喜んでくれました。それから何年かたって先日また、その先生の司式するミサに参加する機会がありました。するとなぜか、その先生は聖体と呼ばれるパンと杯を私にも渡しました。その瞬間、私ははじめてミサの中に自由を感じました。 私が以前の大学でぶつかったもう一つの問題は、聖書観のことでした。私の指導教官の先生はリベラルな立場の方でした。聖書は誤りのない神の御言葉だと信じている私は混乱しました。次第に先生は聖書を信じていないのだと思い、わたしこそが正しいという思いに捕らわれるようになりました。その先生は私が大学院を出る前に亡くなりました。その告別式の弔辞で、私はその先生が死を目の前にして心から永遠のいのちに期待し