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メッセージ 信仰の意味 イザヤ61:7

  あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。 イザヤ 61 章 7 節    私には、キリストが苦しみを知っており、人の苦しみを人として味わい尽くしたことが、筆舌に尽くしがたいほど自分の支えとなることがあります。十字架にかかる前夜血の汗を流すほど苦しみ、その後裏切られ、正しいことをしながら嘲笑され罪人とされたのがキリストです。だからこそ、困難に出会うとキリストが十字架にかかる前に受けられた苦難を思い出し、主が共にいてくださることを実感できるのです。 聖書によれば、イエス・キリストは神であり、神の御子です。この方は、人の罪を贖い、人に永遠のいのちを与えるために世に来られました。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書 3 章 16 節 。聖書は、神が愛であると語っています。神の愛、この世で最も大きな愛はイエス・キリストという人の形をとって世に来られました。 キリストはこの世のすべての罪を背負って、十字架に架かりました。罪を悔いた人のためだけではなく、罪を罪と知らずにご自身を痛めつける人のために祈り、彼らの罪を身代わりとして受けたのです。 キリストの受難の後には、死を滅ぼすほどの希望と幸せがもたらされました。平坦な道だけでは決して人生は歩めません。私たちは必然的に日々いろいろなことに出会います。しかし、何があっても絶対にその先に希望が約束されており、振り返れば「このためだったのだ」と思えるような道を神様は用意してくださっています。初めに引用したイザヤ 61:7 では、何かが壊されたように見えたとき、神様がそこに介入し、回復させると元の倍になって素晴らしいものを得ることになるという約束がなされています。   先が見えない時こそ、信じることの意味があります。信仰とはそのためのものです。 人は心に計画を立てますが、人には地震もパンデミックも予測できませんでした。これからもそうです。突然起こることが人の計画を無にすることがあります。だからこそ、主の計画が必要なのです。 主の計画は人には見えません。人に