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メッセージ 生きてほしい エゼキエル18:32

  なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない――神である主のことば――。だから立ち返って、生きよ。エゼキエル書 18 章 32 節    最近若い人が自ら命を絶ってしまうというニュースを聞くことが多くなりました。閉塞感や孤独感を一層強く感じざるを得ない状況の中、苦しい思いで生きている人の心が一層蝕まれてしまっています。  今回は「誰かに届けば」という気持ちで自殺を考えている人をテーマに書きます。  「死にたい」という思いは希死念慮として鬱の度合いを測る基準のようなものとなっていますが、うつ病と診断されているかどうかに関わらず襲ってくる思いではないかと思います。行動に移してしまうかどうかは、その思いを抱いていることが要因となるので、「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは絶対に軽視できないものです。 同時に、この思いはごく限られた人のものだけではないという側面もあると思います。「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは決して異常なものではなく、傷を受けた人の持つごく正常な感覚であり、同時に「この人なら大丈夫」ということも決してないということです。  自殺は本人が相当苦しんだ結果として起こります。そしてその殆どの場合、苦しみの原因は直接的であれ間接的であれ周囲の人々、あるいは過去にその人のそばにいた人々が作っています。その意味で、自殺とは他殺なのだと思うのです。結果として直接手を下したのが本人であっても、その人をそのような行動に至らせてしまった人々による殺人なのです。つまり、「悪意」や「暴挙」「自己中心的に相手を振り回すこと」「優しさの欠如」は人を殺す力のあるものであるということです。その一つ一つがごく些細に思えるものであっても、親子関係や大人が子供に対してするように絶対的主従関係の中で行われたものであったり、深く信頼した人から行われたり、入れ代わり立ち代わり複数の人から行われたり、長期的に続いたり、多くの人が集団でおこなったり、組織ぐるみで行われていることは非常に大きな力をもってそれを受けた人を苦しめます。行った人にとってはごく小さなことと思えても、悲惨な結果を生み出す可能性は十分にあります。動機に愛の一切ない振る舞いは相手の傷になる可能性を秘めています。愛が動機でなく欲望や