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メッセージ 真理の父と偽りの父 ヨハネ8章44節

  悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。(ヨハネの福音書8章 44 節) 「中世は悪魔がいた時代である。」 神学校の教会史の授業で印象に残っている言葉です。確か歴史学者の言葉を先生が引用なさったのだと思います。ルターにはこんな逸話があります。聖書研究の際、悪魔が現れたので、インク壺を投げつけ、そのインクの跡が彼のいた部屋に残ったというのです。 この言葉を興味深く感じたのは、このルターの行動を「中世はそのような時代だった」と見做す私達自身が、解釈学的観点から問われなければならないのではないかと思わせられるようなものだったからです。もしルターが現代でこのような行動をしたならば、「狂気」的な人とされるでしょう。しかし、フーコーという哲学者は「狂気」とはある時代から作り出された概念の産物だとしています。 16 世紀、ルターの言葉をただの狂人の言葉ではなく聞く価値のあるものとして大勢の人が見做したこと自体が、それを物語っているのではないでしょうか。また彼の残したものが今なお多くの人から耳を傾けられるものであることが、悪魔と戦った彼がただの狂人ではなく、少なくともローマ書の理解において真理に立とうとした人であることを示しているのではないかと思います。 もし悪魔が現実の存在であるならば、ルターのしたことはまさしく悪魔が憎み阻もうとしたことでしょう。ルターとは袂を分かつことになりますが、同じく聖書に真摯に向き合う姿勢を彼に示したエラスムスの働きもまた悪魔から疎まれるものであったと思います。 信仰は、「どのように世界を見るか」という自分自身のかけている眼鏡についての疑問を投げかけます。キリスト教を価値観の一つと見なすなら、それを取り入れることは一つの眼鏡をかけるのと同じことかもしれません。しかしキリストが真理だと信じることは、私たちが自分のかけている眼鏡に疑問を持ち、それを外すことです。信じることは、現実の世界の本当の姿が、キリストの示した神が創造し聖書に啓示された世界であると見なすことだからです。 「サタン」の存在について、私は神学校を出るまでは深く考えることがありませんでした。しかし、聖書には現実の存在として示されています。