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6月, 2021の投稿を表示しています

聖書原語について

これまでの学びの中で、聖書原語については多くを考えさせられました。 勿論原語を知ることで得られるものは大きいです。しかし、キリスト教や神学の世界において、時に原語はステータスや特権のようなものとして捉えられているような印象を受けます。聖書原語は一定の時間を割くことなしに習得するのは難しいので、聖書をそれなしに正確に理解することができないとするならば、聖書はとても狭い世界のものとなってしまいます。行き過ぎるとせっかくルターの時代から聖書翻訳によって多くの人が自由に読めるようになった聖書を、また狭い箱に押し込めてしまいます。もちろん現代語と古典語には隔たりもあるのですが、もし原語に精通しているほど聖書をよりよく知っているという主張が正しいならば、理論上はヘブライ語とギリシャ語のネイティブが最も優れた聖書の理解者ということになります。 優れた神学者であったアウグスティヌスは、一説によればギリシャ語は得意ではなくヘブライ語は読めなかったといいます。 勿論原語を学ぶのは大切なことですが、聖書理解の一つのツールであるということを超えて原語に固執する必要性は無いのではないかと思います

教会で扱う個人情報の問題

 2021年2月にFEBCSprout!というラジオ番組において、教会で被害を受けたセクシャルハラスメント、またそれによって教会を出なくてはならなくなった体験についてお話ししました。放送後内容の補足として描いた文章を以下に掲載します。セクシャルハラスメントに限らず、特定の人物に対する攻撃的な行動などすべてのハラスメントを防止する意味でとても大切なことだと思います。牧師には男性が圧倒的に多いのでなかなかハラスメント被害者の受ける恐怖感が理解されにくい現状があります。意図せず加害者の行動を助長させる行動を牧師自身が行っている教会が数多くあります。このメッセージが特に男性の牧師に届くことを強く祈ります。ここに書いたことに加えて初めて教会に訪れた際よく住所·年齢·生年月日·連絡先などの個人情報を半強制的に書かせるのも危険な因習ではないかと思います。また、女性の神学生には牧師がセクシャルハラスメントやパワーハラスメントを行うことも少なくないです。単立や小さな教団は特に現状改善システムが無いです。教派を超えて被害者を守る必要があります。こういった問題を一人一人にご理解いただけることで状況は変化します。     今回の放送で補足でお伝えしたいのは、牧師先生達は、自分の牧会する教会の方々の連絡先を本人の了解なしに他の教会員に伝えないでほしいということです。 特によっぽどのことが無い限り女性や子供の連絡先を安易に他人に教えないでほしいです。 気をつけていないと、メール転送、メールの一斉送信、ライングループなどで簡単に伝わります。   それが犯罪に加担する可能性のある行為になることを知ってください。     今回の放送でお話した事例は、教会に通うことになる直前にストーカー行為で警察沙汰になった方と同じライングループに牧師が私を入れてしまい、連絡先が分かってしまったことや、教会で全員が全員と握手するような習慣が半強制で行われていたことが原因となりました。   私がセクハラについて牧師に相談するまで、その方にその過去があったことは知らされませんでした。もし事前に知っていれば同じライングループに入るのを承認しませんでしたし、絶対に手を握らせませんでした。 このような事が引き金として作用してしまいました。 危うく次のターゲットになるところでした。     放送でお話したように現状日本の教会教職

メッセージ 引き離せない愛 ローマ人への手紙8章39節

  高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:39   自然災害は、多くの人が心を痛める出来事です。   2011 年、東北で大きな地震が起こった時のことです。テレビを通して津波の惨状を目の当たりにした私は大きな衝撃を受けました。  その後、私はカリタス・ジャパンというカトリックの救援活動団体を通して東北へとボランティアに行きました。  そこで目にした光景は、やはり衝撃的なものでした。崩れた建物、積み上がった車など、悲惨な光景が広がっていました。傾聴のボランティアでいろいろな方のお話を伺うと、ますます心が痛みました。がれき撤去や誰のものかわからず集められた写真を綺麗にする作業も、やりながらいろいろな思いに駆られました。   ボランティアをしながら、神様のなさることへの疑問が自分の中でふつふつと沸き上がりました。自然災害は、戦争などと違い、人の過ちで起こるものではありません。それなのに、絶大な被害を引き起こし、多くの人を悲惨な状況に陥れてしまいます。 そこに滞在しているうちに、私の中で「神様がわからない」という思いが大きくなっていきました。 そしてある時、外に出て一人で「神様どうしてですか。」という祈りをしました。   その日の夕方、カリタス・ジャパンに協力している教会でミサが行われることになっていたので、私も出席することにしました。その時に聖書朗読で読まれたのは、次の言葉でした。     だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦痛ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。  こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。  私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ人への手紙 8 章 35 - 39 節