聖書原語について
これまでの学びの中で、聖書原語については多くを考えさせられました。 勿論原語を知ることで得られるものは大きいです。しかし、キリスト教や神学の世界において、時に原語はステータスや特権のようなものとして捉えられているような印象を受けます。聖書原語は一定の時間を割くことなしに習得するのは難しいので、聖書をそれなしに正確に理解することができないとするならば、聖書はとても狭い世界のものとなってしまいます。行き過ぎるとせっかくルターの時代から聖書翻訳によって多くの人が自由に読めるようになった聖書を、また狭い箱に押し込めてしまいます。もちろん現代語と古典語には隔たりもあるのですが、もし原語に精通しているほど聖書をよりよく知っているという主張が正しいならば、理論上はヘブライ語とギリシャ語のネイティブが最も優れた聖書の理解者ということになります。 優れた神学者であったアウグスティヌスは、一説によればギリシャ語は得意ではなくヘブライ語は読めなかったといいます。 勿論原語を学ぶのは大切なことですが、聖書理解の一つのツールであるということを超えて原語に固執する必要性は無いのではないかと思います