投稿

2021の投稿を表示しています

メッセージ 今生きている救い主 イザヤ書9章6-7節

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 イザヤ書 9 章 6-7 節    聖書をはじめて通読したときの感想は「主が生きておられる」という言葉が聖書には何度も登場するということでした。特に、旧約聖書を読んでいるとき、その印象を強く受けました。そして、私がキリストを信じたのも、実際に主が生きているということを肌で感じたからでした。  信仰生活を続けていると、時々「主が生きている」ということを忘れそうになってしまうことがあります。しかし、忘れそうになると、試練の克服やいろいろなことを通して「ああ、やはり主は生きておられるのだ」と思い出させてもらえる喜びの瞬間があります。    主が生きているということを一番実感するのは、人の心に変化が起こる時です。人の心の変化は、この世に起こることの中で最も大きな奇跡だと思います。どんなに言葉巧みな説明で相手を納得させようとしても、相手の心が開かれていなければ、伝えたいことは伝わりません。人が理解しあうこともお互いに理解しようという気持ちなしには起こりません。主は、人の心に働きかけます。主は生きて、主の愛で人の心に変化を起こすのです。    人は皆、主が造られた尊い唯一無二の存在です。しかし創世記を読めば、また生きてこの世界を体験していればわかる通り、人には罪があります。生きていると時には罪によって悲しい経験をすることがあります。歴史やニュースを見ても、罪の結果を目にすることはよくあります。しかし、生きておられる主がいる限り、罪が勝利することはありません。神様の愛は、人の心を変えるほどの強力な力を持っているからです。  人と人との関係は、罪に飲まれてしまうと亀裂が入ります。相手の悪い部分が目につき、相手を恐れ、信頼を失い、裏切るような行動をとってしまう、そのようなことが起こったとき、人と人との関係は崩れてしまいます。しかし、主が心の中で働くと、罪を自覚するように人は促されます。罪を認めると、悔い

メッセージ 真理の父と偽りの父 ヨハネ8章44節

  悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。(ヨハネの福音書8章 44 節) 「中世は悪魔がいた時代である。」 神学校の教会史の授業で印象に残っている言葉です。確か歴史学者の言葉を先生が引用なさったのだと思います。ルターにはこんな逸話があります。聖書研究の際、悪魔が現れたので、インク壺を投げつけ、そのインクの跡が彼のいた部屋に残ったというのです。 この言葉を興味深く感じたのは、このルターの行動を「中世はそのような時代だった」と見做す私達自身が、解釈学的観点から問われなければならないのではないかと思わせられるようなものだったからです。もしルターが現代でこのような行動をしたならば、「狂気」的な人とされるでしょう。しかし、フーコーという哲学者は「狂気」とはある時代から作り出された概念の産物だとしています。 16 世紀、ルターの言葉をただの狂人の言葉ではなく聞く価値のあるものとして大勢の人が見做したこと自体が、それを物語っているのではないでしょうか。また彼の残したものが今なお多くの人から耳を傾けられるものであることが、悪魔と戦った彼がただの狂人ではなく、少なくともローマ書の理解において真理に立とうとした人であることを示しているのではないかと思います。 もし悪魔が現実の存在であるならば、ルターのしたことはまさしく悪魔が憎み阻もうとしたことでしょう。ルターとは袂を分かつことになりますが、同じく聖書に真摯に向き合う姿勢を彼に示したエラスムスの働きもまた悪魔から疎まれるものであったと思います。 信仰は、「どのように世界を見るか」という自分自身のかけている眼鏡についての疑問を投げかけます。キリスト教を価値観の一つと見なすなら、それを取り入れることは一つの眼鏡をかけるのと同じことかもしれません。しかしキリストが真理だと信じることは、私たちが自分のかけている眼鏡に疑問を持ち、それを外すことです。信じることは、現実の世界の本当の姿が、キリストの示した神が創造し聖書に啓示された世界であると見なすことだからです。 「サタン」の存在について、私は神学校を出るまでは深く考えることがありませんでした。しかし、聖書には現実の存在として示されています。

メッセージ 信じるということ 詩篇37:5-6

  あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のようにあなたの正しさを真昼のように輝かされる。詩篇 37:5 - 6    信仰とは、信頼です。私たちが誰かを信頼するなら、私たちはその人の言葉を信じます。信じているならその人の言葉を疑うことはしません。信頼している相手は、自分を大切に思い、自分の幸せを願ってくれると感じます。その人が自分に対して悪を図るとは思いません。私たちが誰かを信頼するならば、私たちはその人の愛を疑いません。  神に対してこのような思いを抱くことが信仰です。信仰は神に対して信頼することであり、神の言葉を信じ、神の愛を信じることです。    物事がうまくいっている時に神を信じることはさほど難しくないかもしれません。しかし、予期せぬ出来事に出会うとき、つらい日常に終わりが見えないとき、神を信じることは試練となります。  聖書を読むと、神に従う者で試練に合わない者はいません。必ず神から引き離そうとする存在、サタンが働き、苦しみを通ります。ダビデ、ヨブ、パウロ、預言者たち……皆が試練を通っています。  私たちも神に本当に出会ったならば、少なからずそのような経験をします。それでも信仰を手放さない人がいるのは、神とともにいる最低な日は、神とともに生きてはいなかった最高な日よりも遥かに素晴らしいからです。  神は全てを益とすると聖書に約束していますが、試練にあっているときにこれを信じることは難しいことです。私はそんなとき旧約聖書の創世記にあるヨセフのことを思い出し励まされます。  彼は兄たちの嫉妬から殺されかけ穴に放り込まれてしまいます。その後商人に拾われ彼はイスラエルからエジプトへと渡ります。そこでも人の悪意により投獄され、長期にわたる獄中生活を送ります。しかし最後には王に仕える立場となり、飢饉に陥ったイスラエルに住む家族らを助けることになります。    ヨセフは人一倍人からの悪意や拒絶を経験していますが、最後にはそれがすべて益となって家族との和解がもたらされるのです。    私たちには人生の先のことは見えていません。今がつらいとき、それがどんな意味を持つのか全くわからない事が多くあります。またそれがいつ終わるのかもよく分からないこともあります。    だからこそ、生きる上で信仰

メッセージ 信じるゆえに語る 2コリ4:13

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。 コリント人への手紙第二 4 章 13 節    皆さんは説教についてどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。プロテスタント教会の方は礼拝の核になる部分というイメージがあるかもしれません。カトリックの方は、司祭を通して語られる神の言葉というイメージをお持ちかもしれません。ブレザレン系の教会の方、ハウスチャーチ、無教会、オーガニックチャーチ、シンプルチャーチの方は、何か特定の人がする特別なものというイメージは無いかもしれません。説教に対するイメージはおそらく教派によって異なるものだと思います。    私が初めて説教のようなものをしたのは、学生時代に住んでいたキリスト教の寮での朝の集いでした。そこでは学生が順番に聖書から学んだことを語っていました。その後本格的に説教をしたのはミッションスクールでの聖書科の教育実習の際、朝の全校礼拝でした。その前に私はキリスト教の学生団体の主事達に説教の作り方について聞きましたが、皆聞かれるとはじめは少し困った顔をしたのを覚えています。その時はなぜだろうと思いましたが、いざやってみてその理由がわかりました。説教の仕方に決まったセオリーなど無いからです。  その後神学生となり説教学の授業で毎週学生同士長所と短所を言い合うという授業を受けたり、いろいろな教会で説教をさせていただきダメ出ししていただいたりしました。原典から調べたりあらゆる注解をチェックしたり、話し方を研究したり模索していましたが、そうしているうちに自分が人の顔色を窺って語ろうとしたり「努力するほど良い」という考えに陥ったりしているのに気づきました。  高齢化が進んだ多くの教会ではほとんどの方が自分より遥かに年上という状況の中で、経験も浅い自分に何が語れるのか途方に暮れたり、すでに「聖書」があるのに自分の言葉を付け加えるのが無意味に感じることもありました。    神学校を出た後、じっくり聖書を読んで、新約聖書にはあまり礼拝という枠組みでの説教が出てこないことに気づきました。殆ど建物の外で語られています。旧約で預言者が語る神の言葉もそうです。また彼らは原稿を用意しているわけでも注解をチェックしているわけでもなく、例話を

メッセージ 愛という注解 1ヨハ4:16

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。 ヨハネの手紙第一 4 章 16 節  今回は、私が聖書理解についてこれまで教えられてきたことをシェアしたいと思います。  私はカトリックの大学と大学院、またプロテスタントの神学校で神学を学びましたが、その際専攻したのは聖書学でした。キリスト教の教派はそれぞれ独自の教理を持っていますが、それはそれぞれの聖書理解によって構築されています。また神学、聖書学には自由主義的か否かといった立場があります。こういった神学の地図のようなものをはじめはあまり理解していなかったので混乱することが多々ありました。それぞれの場所では出発点というか前提条件となるもの自体が全く違っていて、一歩外に出ればそれとは異なる世界が広がっているとしても、その前提条件自体を問うことはできないような力を持っていました。私は異なる考え方を目の当たりにし戸惑うのと同時に、根本的に、また本質的に同じものは何だろうかとも考えさせられました。  神学や聖書学を学ぶと、教理や歴史、聖書の時代の資料や哲学、教会と関わってきた哲学、写本について、また本文批評、聖書原語、解釈学の講義を受けることになりました。神学の地図のようなものをおぼろげながらも把握しだすと、とても興味深く感じました。私が学んでいたことはとても魅力的で、知ることが楽しくて仕方がなくなりました。しかし次第に、「聖書をもっと知りたくて学んでいるのに、なぜか聖書と遠くなる気がする。」という気持ちも抱くようになりました。聖書の矛盾点や写本の信憑性、新しい学説、新しい解釈、神学のトレンドなどに焦点を当てて学んでいるうちに、聖書を疑う気持ちも出てきました。何度か聖書のあるテーマについて徹底的に調べることに努め論文を書きましたが心のどこかで「私の結論は正しいのだろうか。」という気持ちが拭えませんでした。学んでいた学校に関わらずそう感じました。  次第に私は啓蒙主義以前の聖書理解、教父や宗教改革者たちの書を読むのが好きになりました。それらを読むと心が燃えたからです。そして、それらの聖書解釈は教会史と深く結びついていることも興味深く思いました。心が燃える聖書解釈は、歴史を動かす力を持っていたのです。  しかし、そのように聖書

メッセージ 終わらない希望 ヨハネ11:1-4

さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 ヨハネの福音書 11 章1〜4節   今回は新約聖書にあるヨハネの福音書から、イエス・キリストが死人であったラザロを生き返らせた時の出来事に目を向けたいと思います。連日のニュースから分かるように、今、私たちは楽ではない時代を通っています。そこで、イエス様は、ラザロの病気や死にどのような結末をもたらしたのか、それをどのように用いるかに注目してみたいと思います。私たちが神によって歩むとき、逆境において、この聖書個所から得られることと同じことが起こるからです。   イエス・キリストは、ベタニヤという場所に住んでいた、ある三人の姉弟を愛しておられました。一番上のお姉さんはマルタ、妹のマリヤ、そして弟のラザロです。この三姉弟は、イエス様と親しい者達でした。   あるときラザロは重い病気となります。それゆえこの姉妹は人を遣わして、   「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」   とイエス様に伝えました。そのときイエス様がお答えになったのが、この言葉です。   「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」   「この病気は死で終わらない。」これは一体どういうことでしょうか。   キリストはラザロが病んでいると聞いてからもそのときいた場所に二日とどまりました。それから、ラザロたちのいる場所へと向かいました。そこではキリストを憎む者たちがキリストを殺す計画を立てていましたが、それを知ったうえで、ラザロのもとへとイエス様は向かったのです。   イエス様が到着すると、ラザロはすでに亡くなっており、姉であるマルタとマリヤは身が裂かれるほどの悲しさに苦しんでいました。「あなたがおられればわたしの兄弟

聖書原語について

これまでの学びの中で、聖書原語については多くを考えさせられました。 勿論原語を知ることで得られるものは大きいです。しかし、キリスト教や神学の世界において、時に原語はステータスや特権のようなものとして捉えられているような印象を受けます。聖書原語は一定の時間を割くことなしに習得するのは難しいので、聖書をそれなしに正確に理解することができないとするならば、聖書はとても狭い世界のものとなってしまいます。行き過ぎるとせっかくルターの時代から聖書翻訳によって多くの人が自由に読めるようになった聖書を、また狭い箱に押し込めてしまいます。もちろん現代語と古典語には隔たりもあるのですが、もし原語に精通しているほど聖書をよりよく知っているという主張が正しいならば、理論上はヘブライ語とギリシャ語のネイティブが最も優れた聖書の理解者ということになります。 優れた神学者であったアウグスティヌスは、一説によればギリシャ語は得意ではなくヘブライ語は読めなかったといいます。 勿論原語を学ぶのは大切なことですが、聖書理解の一つのツールであるということを超えて原語に固執する必要性は無いのではないかと思います

教会で扱う個人情報の問題

 2021年2月にFEBCSprout!というラジオ番組において、教会で被害を受けたセクシャルハラスメント、またそれによって教会を出なくてはならなくなった体験についてお話ししました。放送後内容の補足として描いた文章を以下に掲載します。セクシャルハラスメントに限らず、特定の人物に対する攻撃的な行動などすべてのハラスメントを防止する意味でとても大切なことだと思います。牧師には男性が圧倒的に多いのでなかなかハラスメント被害者の受ける恐怖感が理解されにくい現状があります。意図せず加害者の行動を助長させる行動を牧師自身が行っている教会が数多くあります。このメッセージが特に男性の牧師に届くことを強く祈ります。ここに書いたことに加えて初めて教会に訪れた際よく住所·年齢·生年月日·連絡先などの個人情報を半強制的に書かせるのも危険な因習ではないかと思います。また、女性の神学生には牧師がセクシャルハラスメントやパワーハラスメントを行うことも少なくないです。単立や小さな教団は特に現状改善システムが無いです。教派を超えて被害者を守る必要があります。こういった問題を一人一人にご理解いただけることで状況は変化します。     今回の放送で補足でお伝えしたいのは、牧師先生達は、自分の牧会する教会の方々の連絡先を本人の了解なしに他の教会員に伝えないでほしいということです。 特によっぽどのことが無い限り女性や子供の連絡先を安易に他人に教えないでほしいです。 気をつけていないと、メール転送、メールの一斉送信、ライングループなどで簡単に伝わります。   それが犯罪に加担する可能性のある行為になることを知ってください。     今回の放送でお話した事例は、教会に通うことになる直前にストーカー行為で警察沙汰になった方と同じライングループに牧師が私を入れてしまい、連絡先が分かってしまったことや、教会で全員が全員と握手するような習慣が半強制で行われていたことが原因となりました。   私がセクハラについて牧師に相談するまで、その方にその過去があったことは知らされませんでした。もし事前に知っていれば同じライングループに入るのを承認しませんでしたし、絶対に手を握らせませんでした。 このような事が引き金として作用してしまいました。 危うく次のターゲットになるところでした。     放送でお話したように現状日本の教会教職

メッセージ 引き離せない愛 ローマ人への手紙8章39節

  高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:39   自然災害は、多くの人が心を痛める出来事です。   2011 年、東北で大きな地震が起こった時のことです。テレビを通して津波の惨状を目の当たりにした私は大きな衝撃を受けました。  その後、私はカリタス・ジャパンというカトリックの救援活動団体を通して東北へとボランティアに行きました。  そこで目にした光景は、やはり衝撃的なものでした。崩れた建物、積み上がった車など、悲惨な光景が広がっていました。傾聴のボランティアでいろいろな方のお話を伺うと、ますます心が痛みました。がれき撤去や誰のものかわからず集められた写真を綺麗にする作業も、やりながらいろいろな思いに駆られました。   ボランティアをしながら、神様のなさることへの疑問が自分の中でふつふつと沸き上がりました。自然災害は、戦争などと違い、人の過ちで起こるものではありません。それなのに、絶大な被害を引き起こし、多くの人を悲惨な状況に陥れてしまいます。 そこに滞在しているうちに、私の中で「神様がわからない」という思いが大きくなっていきました。 そしてある時、外に出て一人で「神様どうしてですか。」という祈りをしました。   その日の夕方、カリタス・ジャパンに協力している教会でミサが行われることになっていたので、私も出席することにしました。その時に聖書朗読で読まれたのは、次の言葉でした。     だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦痛ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。  こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。  私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ人への手紙 8 章 35 - 39 節

メッセージ 私を知っている神 詩篇139:1-6

主よ あなたは私を探り、 知っておられます あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知りぬいておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。 詩篇139 1-6節 自分のことを一番知っているのは誰でしょうか。多くの人は自分を一番知っているのは自分であると考えるかもしれません。聖書の答えは違います。もし私以上に私を知っている人がいるとしたら……今回は、その答えを示した箇所である詩篇139の冒頭にスポットを当てみたいと思います。 自分のことを一番よく知っている人間は、紛れもなく自分です。しかし、私自身、時々私の中に自分の知らない領域があることに気づかされます。物心つく前の記憶は勿論曖昧ですし、数年後、数十年後自分がどうなっているのかも確実なところは分かりません。また、日頃自分が自覚せずに無意識のうちに感じていることも多くあります。 聖書は、世界の創造者は神であると伝えています。私たちを創ったのは、聖書によれば、神です。例えば私たちが何かを作るとき、私たちはその作品の材料、性質、目的、またその作品の限界をよく知っています。もし神が人を創造したのであれば、神は誰よりもそれを熟知しているはずです。 私が大学生だったとき、詩篇139の言葉が強く心に焼き付けられる経験をしました。 私の仲の良かった同じ年の友人が、突然亡くなったという知らせを受けた時です。私はその子が大学に入学する前に色々な未来を思い浮かべていたことを知っていたので、その知らせは本当にショックでした。その頃、当然のように将来のことを考えていた私は、「将来」とは人にとって不確かなものであることを感じました。しばらくその子の死を私は全く受け入れることができませんでした。生きていれば当たり前のように経験する多くのことを知らずにその子は突然この世から去ってしまいました。私にその子の死を伝えてくださったご家族の声は、言葉にならないほど苦しそうでした。 私はその時、神様のした事に対して全く納得がいきませんでした。なぜこんなことが起こったのかと神

メッセージ 蘇られたキリスト ルカの福音書24章27-34節

  それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。 ルカの福音書 24:27-34    主のご復活おめでとうございます!  私は小さいころから、エマオへの道行きを描いた有名な絵が大好きでした。おそらく目にしたことのあるクリスチャンも多いと思いますが、森の中の道を二人の弟子とイエス様が歩く後姿が描かれた絵です。幼い頃、福音をまだ把握する前から、この絵をみると希望が湧いてきて、胸が熱くなりました。  福音書の終わりはどれも、キリストの十字架刑の後、主の復活が起こったことを語っています。キリストは死ななかったのです。死を経て蘇ったのです。素晴らしいハッピーエンドです。このハッピーエンドは他人事ではなく、私たちの物語へと続きます。なぜなら、同じ復活の主が今生きていて、エマオで主と出会った人々と同じく、私たちも主と語り合うことができるからです。    先日、辛いことがあったとき、眠ることができず聖書を夜な夜な読んでいました。ちょうど読んでいたのは使徒の働き(使徒言行録)でした。私の心はなかなか晴れ晴れとせず安心して布団に入る気が起きなかったのですが、突然一節から目が離せなくなりました。 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」使徒 9:31    それを読んだとき、突然その状況が目に浮かぶような気がしました。そしてまさにこ

メッセージ 希望の計画 エレミヤ29:11

  「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節  今回の聖書箇所旧約聖書のエレミヤ書 29 章 11 節は、私の大好きなみことばです。この言葉は、私たちの将来が希望が満ち溢れていることを約束する言葉です。この言葉を握りしめるとき、くじけそうなときも目の前の状況ではなく、神に目を向け、再び立ち上がることができるのです。 これは旧約聖書に登場するエレミヤという預言者の言葉です。聖書に書かれる預言は、「預かる言葉」と書きます。預言者とは、神の言葉を預かって人に伝える役割を負った人のことです。  エレミヤの生きた時代は、当時二つに分かれていたイスラエルの南ユダ王国がバビロン捕囚にあった時期でした。ユダヤ人たちはバビロニアの占領によりバビロニアへの強制的な移住を余儀なくされたのです。 エレミヤは、滅びゆく国の姿を目の当たりにした人でした。彼はイスラエルの民がバビロン捕囚によって苦しみの中にたたされたとき、共にいて、主の言葉を伝え続けました。エレミヤの預言は、一つの偉大な神の賜物によって、支配されていました。それは希望です。 エレミヤは背教の罪を犯した民に神の悲しみを伝えると同時に、国が滅ぼされバビロンに捕らえられていった者たちに、希望を伝え続けました。彼は民に、捕えられた先で、畑を作り、家を建て、子供を育てるよう指示しました。エレミヤは苦しみの中でも主により頼めば心の平和を得ることができることを示しました。 神はユダヤの民をバビロンから再び救い出すことを約束していました。そのようにしてエレミヤが捕囚の民に希望を語ったことばが、はじめに書いたエレミヤ書 29 章 11 節のみことばです。 「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 将来に向けて、私たちは心にいろいろな計画を思いめぐらします。しかし、実際のところ人には一瞬先のことさえわかりません。 人の歩みを確かにするのは、ただ一人の方、主なる神のみであることを聖書は伝えます。エレミヤはエレミヤ書 10 章 23 節でこう語ります。 「主よ、私は

「完璧な家族」という偶像

(※私の所属もカテゴライズすれば福音派的なので、内部からの批判として書きました。以下の文章にあてはまらない福音派の教会やクリスチャンも沢山いらっしゃいます。) 教職に就こうとすると如実に感じるのは、福音派には概して未だ男女不平等な性質が多く残っているということです。神学校でも外向きにはそのような問題に取り組んでいるように見せかけても、パフォーマンスだけでその内実は全く伴っていないことを何度も感じました。そのことと深く関係しているように感じるのは、福音派が抱えている「完璧な家族」への偶像です。   「完璧な家族」に対する偶像は保守的なキリスト教との深い関わりの中でとても考えさせられる問題です。 勿論例外も多々ありますが、保守的なキリスト教の中で、まだ学生のころから年齢にこだわり、年上の女性を蔑み、年齢を重ねることに恐れを抱く女性をとても多く見ました。彼らは神の与えた自分の本当の価値に気づくことのできない、女性に賞味期限を突きつける因習的な男尊女卑の考え方を刷り込まれた犠牲者です。聖書ではなくその非聖書的価値観に支配されているのです。そのような人たちは皆半ば焦燥感にかられるように結婚や出産に邁進しています。その背景には、福音派において「完璧な家族」が偶像化されていることがあります。 「夫婦ともにクリスチャンで、子供や孫(子供のころに洗礼を受け教会に熱心に通うクリスチャンや献身者であることが望ましい)のいる仲の良い家庭、牧師家庭であればなお良い」というステレオタイプがその世界で最も推奨されるあり方となってしまっているのです。   神の創造物である人間に「欠陥品」など本来一人もいないはずですが、そのステレオタイプに当てはまらなければ例えば次の例のように「欠陥品」として扱われることがあります。  保守的なキリスト教において離婚は異様なほど嫌厭されます。私は保守的なキリスト教の学生伝道のための団体で働いていた方が離婚を考えていることを理由にその団体を「学生によくない影響を与える」として「穏便に」辞めさせられるのを見たことがあります。その背景には配偶者のモラルハラスメントがあったにも関わらずです。最も人が助けてほしい時に、何てキリストとかけ離れたことをする組織なんだろうと感じてしまいました。そんなふうに血も涙もないようなことをする組織で彼らの基準で

メッセージ 真理による自由 ヨハネの福音書8章32節

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ヨハネの福音書 8 章 32 節 やがて過ぎ去る目に見えるものを信じようとする人間に、目に見えないものこそ永遠の真理であることを示すために、神は聖書を人間に贈りました。約 500 年前、ルターの翻訳によって聖書があらゆる人の手に渡ったとき、瞬く間に多くの教派が生まれました。それはキリストを信じる人々に真理による自由が与えられた証でした。しかし、次第に聖書の真理を追究することが、対立や争いを生むようになりました。教会の分裂を危惧したエラスムスは、教理には本質的で不可欠なものと議論の余地のあるものの二種類があるとし、その本質的で不可欠なものを探ろうとしました。このことのうちにもまた、真理があったといえるでしょう。   私はプロテスタント教会に所属していますが、長らくカトリックの大学で勉強していました。そのときいつも悲しくなる時間がありました。カトリック教会の礼拝、ミサのなかの聖餐・すなわち聖体拝領の時間です。聖体拝領は教理の問題で原則カトリック教会の人しか受けられません。ミサに出る機会は多くありましたが、カトリックの人が好きになっていくほどに、自分だけ取り残されるその時間が嫌いになりました。ある司祭の先生に私も聖体拝領が受けられないかきくと、先生は困りながら「教会で決まっていることだから、聖公会以外のプロテスタントの人はどうしても受けることができない」と答えました。しかし大学院を終えるときには私がプロテスタントの神学生となることを先生はとても喜んでくれました。それから何年かたって先日また、その先生の司式するミサに参加する機会がありました。するとなぜか、その先生は聖体と呼ばれるパンと杯を私にも渡しました。その瞬間、私は初めてミサの中に自由を感じました。   私は大学院に進学し、聖書学で修論を書きましたが、そこでぶつかったもう一つの問題は、聖書観でした。私の指導教官の先生は自由主義的、つまり近代において聖書を教会から解放して解釈しようとする立場の方でした。聖書は誤りのない神の御言葉だと信じている私は混乱しました。次第に先生は聖書を信じていないのだと思い、私こそが正しいという思いに捕らわれるようになりました。その先生は私が大学院を出る前に亡くなりました。その告別式の弔辞で、私はその先

メッセージ 聖書の核心 イザヤ書43章4節 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書 43 章 4 節    私の母はプロテスタント教会のクリスチャンで、私は幼いころから聖書の話を聞いていました。中学校からはカトリックのミッションスクールに通い、その後カトリックの大学の神学部に入学しました。とは言ってもそれまでの私は信仰深いといえるような状態ではありませんでした。自主的に礼拝に出席することもあまりなく、聖書もほとんど読んでいませんでした。半ばご利益宗教のように何か特別に頼みごとがあるときだけ思い出したように祈ったりはしていましたが、キリスト教は自分の中でどこか価値観の一つに留まっており、優先順位が低いものでした。他にもっと大事なことのように思えるものが沢山あったのです。しかし母の勧めで神学部の受験を考え、聖書を読んでいるうちに、キリストの復活後に別人のように力強く宣教を始める弟子たちの姿が心に残りそこで学ぶことを決めました。  大学二年の時、母が病気で一時的に入院することになりました。不思議なことに母は入院中、それまでよりもずっと生き生きしていました。それは聖書の次の言葉が自分に語られたからだと言っていました。 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」ヨハネの福音書 11 章 4 節。    そのことを通して、私は聖書に語られた神が今、生きているのだということを知りました。その頃から、私の世界を見る目は変わりました。もう道ですれ違う人も電車でたまたま同じ車両に乗っている人も、私には他人でなくなりました。キリストは出会う人々に優しさを表す人にこう語ります。 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」マタイ 25 章 40 節 。この聖書の言葉ゆえに、出会う人は私にとってキリストとなりました。キリストは、私の人生そのものとなりました。   それから私は神様に仕えて生きていきたいと思うようになりました。一緒に勉強していた神父さんやシスター達の存在にもとても励まされました。カトリックの神学部でプロテスタント教会に属する自分が学んでいる意味も考えさせられるようになりました。私はもうしばらくここで学ぼうと思い、大学院の修

メッセージ まことの光 ヨハネ1:9

  すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。ヨハネ1:9   クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。世界の初めから長い間待ち望まれた救い主です。キリストは私たちを罪と死から救い出すために世に来られました。確かにこの世には悲しいこと、醜いことがあります。生きていれば嫌でもそれを経験します。歴史や日々のニュースを見ても、悲しいことや醜いことは絶えずどこででも起こっています。  しかし、その全てに打ち勝つことのできる方を、神は私たちに贈ってくださいました。それは神の私たちに対する結晶が人となり地上に来られた、イエス・キリストです。神は愛です。愛ほど強いものはありません。  悲しみ、憎しみ、偽り、妬み、悪の力は時に強大に思え、時に私たちは失望しかけることもあります。しかし、愛はそのすべてに打ち勝つのです。キリストは世の光となって私たちのもとへ永遠のいのちを届けるために来られ、死をも打ち滅ぼしました。    イエス様は赤子の姿で世に来られました。決して近寄りがたい存在になることなく、「私のもとへ来なさい。」とご自分から私たちのもとに歩み寄りました。この世的な栄誉を求めるのではなく、いつも愛に満ちた正し いことをしていました。その結果、罪の無いこの方は、多くの人に憎まれ十字架につけられました。しかし、その十字架こそがすべての勝利の源でした。その十字架がすべての人の罪を贖う赦しをもたらし、復活して世の終わりまで私たちと共にいることを約束してくださいました。    今年のクリスマスは、とても良いクリスマスになると思います。 クリスマスになると、毎年教会は忙しくなります。クリスマスにある様々な企画のために、教職をはじめ教会員も奔走することが多くなります。私はそんなクリスマスの姿にいつも違和感を持っていました。「忙しい」とは心を亡くすと書きます。心を亡くす理由は様々です。聖歌隊の練習、愛餐会の準備、交わりの企画、教会学校のイベントの準備、クリスマス礼拝が滞りなくスムーズに行われるよう心を配ること。どれも「クリスマスのためのこと」ではあります。しかし、世に来られ、今生きてこの場にいるイエス様抜きでそれらの事柄が重要になってしまうことがとても多いのです。  イエス様は、ご自分をもてなそうと忙しく働くマルタに「どうしても必要なことは一つだけだ」と語ります。そのたった一