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メッセージ「助け主なる聖霊」 ヨハネ14:16-17

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 ヨハネの福音書14章16-17節                                                                    聖霊を別の言葉で言い換えるなら、愛という言葉がふさわしいかもしれません。神は愛であり、聖霊はその神の一つの姿だからです。聖霊は、人格化された愛です。聖書を読むと、何度も「神の霊」「御霊」「聖霊」という言葉にぶつかると思います。これらはみな一つの聖霊を指した言葉です。「父と子と聖霊によって」という祈りの言葉を聴いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。これは父なる神とイエス・キリスト、そして聖霊と言う、三位一体の神を表した表現です。聖霊とは、人の内に住む神の姿です。聖霊は聖書の原語では息や風という意味も持った言葉が使われています。風は目には見えません。しかし私たちは肌で、また風にそよぐ木々や葉、舞い落ちる花びらを見て、その存在を知ることができます。  聖霊も同じです。目に見えるものではありませんが、確かにその存在を感じ、そして人を動かし、根本的に全てを変化させることができる神の力です。  私の好きな讃美歌に、「聖霊来たれり」という歌があります。その歌詞の中に「目に入るもの皆輝く」という言葉があります。この言葉の語ることを私は体験したことがあります。それはまさに聖霊が私に降った体験でした。  物心つく前からキリスト教を知っていましたし、神様の存在を信じていましたが、神様と本当に出会ったと言える体験を、はっきりと覚えています。 それは母が病気になったことをきっかけに起こりました。母はヨハネの福音書の「この病は死で終わるものではなく、神の栄光をあらわすもの」というみことばによって本当に力を受けていました。私は母の中に生きる神の力を見ました。その後、私は出会う人一人一人の一番美しい部分を見ているようなキリスト者の方に出会いました。どうしたら自分もそのようにな

メッセージ「信仰による歩み 創世記50:20、ローマ8:28」

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。創世記 50:20  今これをきいてくださっている方の中には、長らく楽ではない日々を送っている方々もいらっしゃるかもしれません。新型コロナウイルスの影響で、感染の恐怖と戦いつつお仕事をなさる方、また自粛中孤独と向き合わざるを得ない方々もいらっしゃるかもしれません。人生には予期しない出来事がたびたび起こります。勿論良いこともあれば、反対に、なぜこんな事が起こるのだろう、なぜこんな人と出会わなければならなかったのだろう、ということも起こりえます。私たちは自分の道を歩むうえで、自分に出会う出来事とどう向き合い、対処すればよいのでしょうか。人生において信仰は、道しるべとなります。今回は、旧約聖書のヨセフという人物に焦点を当てて、人生のとらえ方を見つめてみたいと思います。  聖書に登場する人物は、順風満帆といった人生を歩むことは殆どありません。真直ぐに神を信じたものほど迫害に遭い、迫害者から逃げたり、大きな試練を通りながら歩みます。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」と第二テモテの三章にあるとおりです。しかしそのような信仰のある人々は皆、生ける神の介入により、代えがたい喜びを得て生きています。ヨセフもまた例外ではありませんでした。  ヨセフは旧約聖書の族長時代に生きた、ヤコブの子供の一人です。イスラエルに生まれたヨセフには兄弟が多くいましたが、ヨセフの兄たちは父親が彼をだれよりも愛しているのを見て、ヨセフを憎んでいました。ある日ヨセフは二つの夢を見ます。一つは畑で束を作っているとヨセフの束が起き上がり、兄たちの束が周りに来てヨセフの束を伏し拝むというもので、もう一つの夢は、太陽と月と 11 の星がヨセフを伏し拝むというものでした。これらの夢についてヨセフが兄たちに話すと、兄たちはますますヨセフを妬むようになりました。そこでこの兄たちはヨセフを殺すことを企てます。 どうにかそのことは思いとどまったもののヨセフの兄たちは彼を穴に放り込み、当時のイスラエルの部族の一つであったミディアン人の通りがかりの商人に売ってしまいました。商人はヨセフをエジプトへと連れていき

メッセージ「教会とは」

一つのことを私は主に願った。それをわたしは求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。詩編27篇4節  キリストを信じると、教会に行かなければならないのか、これは多くの人が抱く疑問かもしれません。まず、教会とは何でしょうか。多くの人が思い浮かべるのは、十字架のついた建物かもしれません。しかし、新約聖書の使徒の働き 7 章 48 節には「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」とあります。聖書が語る教会は、永遠の中に存在する普遍的なものであり、物理的な対象を指すのではなく、霊的なものです。聖書が繰り返し語るのは、教会とはキリストのからだであるということです。そして、教会の頭はキリストです。  イエス様は弟子のペテロに向かって「私はだれか」と尋ねました。するとペテロは次のように答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」そのペテロに向かってキリストは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。この岩の上に、わたしは教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」  と語ります。イエス様は、イエス様ご自身を神の子キリストと告白する、その信仰の上に教会を建てたのです。教会とは、イエス・キリストを救い主とする信仰者の集まりなのです。私たちは皆、世界の基の据えられる前から愛された神の子供です。礼拝とは、子供たちが神という父に会うことなのです。  新約聖書の多くの書簡を記しているパウロは、その中で教会はキリストの身体であると繰り返し語っています。イエス様は教会とはご自身の体であることを示すため、復活を指して3日で神殿を建て直すと仰いましたが、イエス様がいらっしゃる場所が教会なのです。聖書に示された教会とは、イエス様のいらっしゃる場所なのです。 聖書には、「二人三人でも、主を信じる者が集まれば私はそこにいる」というイエス様の言葉があります。この言葉に導かれ、私はクリスチャンの家族と家で讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るようになりました。そのようにしてから、家の中が神様の光で満たされているような感覚を覚えるようになりました。私自身の罪も以前に増して気づ