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メッセージ「キリストの復活」

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにいたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちはイエスのことばを思い出した。ルカの福音書 24 章 1-7 節  最近教会の外でもイースターという言葉を聞く機会は多くなったような気がします。今回はキリスト教における本当の「イースター」の意味についてお話したいと思います。  ご存知の方も多いかと思いますが、イースターとは、復活祭を指します。誰の復活かというと、キリストの復活です。キリストが十字架で人の罪を贖うために死んだあと、よみがえったことを記念した祭日です。これはキリスト教にとってクリスマス以上に重要な出来事と言っても過言ではありません。「主が今生きている」ということが、キリスト教信仰の基盤であり、聖書に書かれていることがただ 2000 年前に起こった出来事というだけでなく、私たちに今現在関わってくるということの理由だからです。もしキリストがいま生きていなかったら、キリスト教はとっくに廃れているでしょう。キリストが今もなお人々を動かし人を変える力を持っているのは、まさしく、この方が今生きておられるからなのです。パウロはこのことを次のように説明しています。 「 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ

メッセージ「聖書とは」

あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。 詩篇 119 篇 105 節  聖書を見たことがありますか。もしミッション系の学校を卒業している方ならば、学校で読んだことがあるかもしれません。聖書を部屋に置いてあるホテルに泊まったことがある方もいらっしゃるかもしれません。一度も見たことが無いと言う方もいらっしゃるかもしれません。  聖書は紀元前から存在している、世界で最も古い書物の部類に入る本です。著者は 40 人以上、数千年にわたる出来事が記されています。印刷技術が生まれる前、書物は人の手で写されて後代へと残されていきました。同時代の多くの書物は、殆ど写本が残っていません。しかし聖書の写本は数知れず存在しています。数えきれない人の情熱によって、この本は今私たちの手元にあるのです。数千年変わらず、現在に至るまで、聖書は世界一のベストセラーです。極めて古い本でありながら、その内容は古くなるどころか常に私たちに新鮮な驚きを与える新しいものです。古くて新しいという、この不思議な本の特徴を成しているのは、まさしく聖書の持つ永遠性でしょう。  聖書はキリスト者にとっていのちです。なくてはならないものです。それはこれが啓示として与えられたものだからです。世界の始めから終わりまでをつかさどる、神によって与えられた、神ご自身を示す、そのような書なのです。  きわめて多くの文字が記された分厚い本ですが、聖書ははじめから終わりまで、イエス・キリストによって示された神のことを一貫して記しています。 世界の始まりからキリストの誕生以前のことについて書かれた旧約聖書には、キリストについての預言が数百あります。数千年かけて、多くの人が語ったその預言は、キリストにおいてすべて成就したことが新約聖書を読むと分かります。新約聖書はキリストの誕生以後について書かれたものです。  聖書には、神が愛であること、そして希望を与え続ける方であることが繰り返し一貫して書かれています。聖書は多くの人間の手を通して、神ご自身が書いたものです。この聖書の言葉を信じることが、キリスト者の歩みです。   「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」 詩篇 119 篇 105 節      キリスト者にとって聖書は道しるべであり、いのちの

リバイバルの兆し

「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」使7:48。 最近宗教改革の背景にペストの流行があったという教会史の授業できいた言葉を思い出す。皆が真剣に魂を省み主を仰ぎ見たとき、御手の働きがあったのだ。 礼拝のあり方に変化が起きている今は教会が本質に目が開かれるときなのかなと思う。教会はキリストの身体だ。私たちが教会に行くのではなく、私たちが教会なのだ。 「本当に必要なのは一つだけ」とイエス様が仰るとおり、神様が求めているのはただ神様を信じ、神様と共にいることだけだ。 教団の維持、イベントの企画、CSの聖書の話以外の部分、会報作りなど、教会の仕事は神様以外のことで随分複雑に、忙しくなっている。献身した当初、「あれ?自分はこれがやりたかったのか。。?」と何度も自問自答した。また「説教作りのために」聖書を読むことでいろいろなことを調べ充分聖書を読んでいると錯覚していた。今振り替えれば、自分の魂のために、神様との交わりのために聖書を読まなければ、聖書を全く読んでいないのと同じだったのだと理解できる。聖書は聖書自身が主張するとおり、神がご自身を明らかにするためのものだからだ(ヨハ20:31)  また献身したからこそ、献身した人にだけ何か霊的に特別な権限が与えられるのではないと分かった(献身した人の役割はあると思う)。神の前には皆同様に罪人だ。説教や聖餐や洗礼を行うのも、人の作った制度で与えられる特権ではない。私たちはいつでもどこにいても、神様を礼拝できる。  これまでともすると礼拝すら偶像化される機会があったことで傷ついた方がたくさんいらしたのではないかと思う。いろいろな理由で礼拝に行けないことはある。もし日曜日に交通機関で働いてくれる人がいなければ、多くの人が礼拝には行けない。当たり前のように礼拝に行けることの背景に、礼拝に行かずに働いている人の支えがある。  最近多くの教会が礼拝以外の活動を中止し、物理的に礼拝に出席することを強要しないやり方に切り替えているのは、神様の御手の中にあることなのだろうと思う。家の教会、シンプルチャーチ、オーガニックチャーチが広がっていることにも、何か深い意味があるのだと思う。今、キリスト者は自分たちを縛っていたいろいろな固定観念に気付き、解放され、「ただ主を信じ