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メッセージ あなたの光 イザヤ60:1

  起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。イザヤ書 60:1-3                                                                                 今年もクリスマスの時期がやってきました。キリストを信じる者にとっては、暖かな希望に溢れる時期だと思います。  今年もいろいろなことがありました。特に、コロナウイルスの流行に加え、ウクライナとロシアでの戦争は、私たちの心を大きく騒がす出来事だったと思います。  日々のニュースを見ていると、世の中では悲しいことばかりが起こっているように思います。しかし、実際世の中には悪いことよりも良いことのほうがずっと多いのです。 神様は「良い」神様です。そして私たち一人一人をこの上なく愛しています。それを心から信じるとき私たちは何かが起こった時にそれを前向きに捉える選択ができるのだと思います。  生きていれば、日々の生活の中で時に些細なことでも心が動揺させられることもあります。多くの場合落ち込むきっかけになるのはそのようなことかと思います。私にはこのことを考えさせられるのに印象的だった出来事があります。 私が神学生の頃、卒業間近、修士論文の発表会がありました。これは最終的な提出前の第一稿の段階で行うものでした。発表を行うと指導教官をはじめとする先生方が改善点を多く指摘してくださいました。正直それまでいくら原稿を送っても一向に指導教官から具体的なアドバイスを得られず不安だったので、そのとき、やっと何か言ってくださったと安堵の気持ちを覚えました。また先生方がかなりいろいろなことを仰ってくださったことで私の論文に対して関心を持っていただいていることが伝わり嬉しさもありました。 ところが終わった後、二人の学生から立て続けに「かなり強い口調でいろいろ言われていたけれど大丈夫か」と心配されました。そのころ神学生の生活があまりにオーバーワークでバーンアウトしていたころだったので、その心配の言葉を聞いて不安定だ

メッセージ 全てを益とする神 ローマ人への手紙8章28節 

  神を愛する人たち、すなわち神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。ローマ人への手紙8章28節  今これを読んでくださっている方は、それぞれいろいろな状況の中で日々を過ごしていらっしゃると思います。  聖書に登場する人物は、順風満帆といった人生を歩むことは殆どありません。真直ぐに神を信じたものほど迫害に遭い、迫害者から逃げたり、大きな試練を通りながら歩みます。 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」 と第二テモテの三章にあるとおりです。しかしそのような信仰のある人々は皆、生ける神の介入により、代えがたい喜びを得て生きています。ヨセフもまた例外ではありませんでした。  ヨセフは旧約聖書の族長時代に生きた、ヤコブの子供の一人です。イスラエルに生まれたヨセフには兄弟が多くいましたが、ヨセフの兄たちは父親が彼をだれよりも愛しているのを見て、ヨセフを憎んでいました。ある日ヨセフは二つの夢を見ます。一つは畑で束を作っているとヨセフの束が起き上がり、兄たちの束が周りに来てヨセフの束を伏し拝むというもので、もう一つの夢は、太陽と月と 11 の星がヨセフを伏し拝むというものでした。これらの夢についてヨセフが兄たちに話すと、兄たちはますますヨセフを妬むようになりました。そこでこの兄たちはヨセフを殺すことを企てます。   どうにかそのことは思いとどまったもののヨセフの兄たちは彼を穴に放り込み、ミディアン人の通りがかりの商人に売ってしまいました。商人はヨセフをエジプトへと連れていきます。ヨセフはエジプトの地で、王であるファラオに使えるポティファルという人物に買い取られます。ポティファルは神がヨセフとともにいてすべてを成功させてくださるのを見ました。ヨセフによってポティファルの家は祝福されました。ところがポティファルの妻はヨセフに毎日言い寄るようになりました。ヨセフが彼女から逃れようとすると、彼女はヨセフを貶め家から追い出してしまいます。ポティファルは妻に騙されヨセフを監獄に入れました。しかし「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうように」されました。監獄でヨセフは一緒に拘留されていた者たちの夢を聞き、その意味を解き明かします。ヨセフはそのう

メッセージ 生きてほしい エゼキエル18:32

  なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない――神である主のことば――。だから立ち返って、生きよ。エゼキエル書 18 章 32 節    最近若い人が自ら命を絶ってしまうというニュースを聞くことが多くなりました。閉塞感や孤独感を一層強く感じざるを得ない状況の中、苦しい思いで生きている人の心が一層蝕まれてしまっています。  今回は「誰かに届けば」という気持ちで自殺を考えている人をテーマに書きます。  「死にたい」という思いは希死念慮として鬱の度合いを測る基準のようなものとなっていますが、うつ病と診断されているかどうかに関わらず襲ってくる思いではないかと思います。行動に移してしまうかどうかは、その思いを抱いていることが要因となるので、「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは絶対に軽視できないものです。 同時に、この思いはごく限られた人のものだけではないという側面もあると思います。「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは決して異常なものではなく、傷を受けた人の持つごく正常な感覚であり、同時に「この人なら大丈夫」ということも決してないということです。  自殺は本人が相当苦しんだ結果として起こります。そしてその殆どの場合、苦しみの原因は直接的であれ間接的であれ周囲の人々、あるいは過去にその人のそばにいた人々が作っています。その意味で、自殺とは他殺なのだと思うのです。結果として直接手を下したのが本人であっても、その人をそのような行動に至らせてしまった人々による殺人なのです。つまり、「悪意」や「暴挙」「自己中心的に相手を振り回すこと」「優しさの欠如」は人を殺す力のあるものであるということです。その一つ一つがごく些細に思えるものであっても、親子関係や大人が子供に対してするように絶対的主従関係の中で行われたものであったり、深く信頼した人から行われたり、入れ代わり立ち代わり複数の人から行われたり、長期的に続いたり、多くの人が集団でおこなったり、組織ぐるみで行われていることは非常に大きな力をもってそれを受けた人を苦しめます。行った人にとってはごく小さなことと思えても、悲惨な結果を生み出す可能性は十分にあります。動機に愛の一切ない振る舞いは相手の傷になる可能性を秘めています。愛が動機でなく欲望や

メッセージ 私の平和 ヨハネ14章27節

  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。ヨハネ 14 章 27 節 イエス様は私たちに平和を与えました。平和は、一人一人の心の中から造られます。世界とは決して漠然としたものではなく、私たち一人ひとりよって構成されています。世界を平和にできるのは、私たち一人ひとりです。心に平和があれば、他人を攻撃することやお金のために他人を苦しめるような決断をしません。しかし、心の平和は、愛を知っている人だけが実現できるものです。真の平和は愛によって実現されます。自分の心に平和を築くことを決意することが、同じ過ちを決して繰り返さないことへの第一歩なのです。 永遠に変わらない方は、神のみです。これに対し罪に侵された人間の道徳感覚というものは如何に危ういものでしょうか。人類の歴史を概観すると、これは顕著に顕れています。第一次世界大戦において、近代武器は相当に発展しており、 すでに人間が槍と盾とで戦った時代は過ぎ去っていました。「戦争をなくすための戦争」と言われた第一次世界大戦でしたが、終戦時結ばれたヴェルサイユ条約では戦勝国が一方的に、復讐ともいえるような賠償を戦敗国ドイツに求めた結果、新たな憎悪が生まれ、打倒ヴェルサイユ体制を謳うヒトラーのような人物の出現は不可避となってしまいました。 原子爆弾投下やホロコーストにみられる取り返しのつかない間違いの根本的な原因を、多くの人間は知ることがありません。罪を知る者、キリスト者だけが、その根本的な原因を知ることができます。 第二次世界大戦後、戦争防止と平和強化のため建てられた国際連合教育科学文化機構、ユネスコのユネスコ憲章前文には次の言葉があります。 「戦争は人間の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」 人の心の中の罪が問題にされない限り、人の心に平和が築かれることはなく、それゆえ戦争が止むことはないでしょう。私たちが戦争責任を他人の問題として責め立てている限り、決して真の平和が世界に訪れることはありません。戦争は人の心の中、つまり全人類の内にある罪に起源するものです。 人の世において、正義は存在するのでしょうか。世界の歴史と現状を見る限り、唯一の基準となる正しさなどは存在しません。 ヘブル人への手紙は人の在り方を描写するのに、「邪悪な良心」という言葉を

メッセージ 信仰の意味 イザヤ61:7

  あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。 イザヤ 61 章 7 節    私には、キリストが苦しみを知っており、人の苦しみを人として味わい尽くしたことが、筆舌に尽くしがたいほど自分の支えとなることがあります。十字架にかかる前夜血の汗を流すほど苦しみ、その後裏切られ、正しいことをしながら嘲笑され罪人とされたのがキリストです。だからこそ、困難に出会うとキリストが十字架にかかる前に受けられた苦難を思い出し、主が共にいてくださることを実感できるのです。 聖書によれば、イエス・キリストは神であり、神の御子です。この方は、人の罪を贖い、人に永遠のいのちを与えるために世に来られました。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書 3 章 16 節 。聖書は、神が愛であると語っています。神の愛、この世で最も大きな愛はイエス・キリストという人の形をとって世に来られました。 キリストはこの世のすべての罪を背負って、十字架に架かりました。罪を悔いた人のためだけではなく、罪を罪と知らずにご自身を痛めつける人のために祈り、彼らの罪を身代わりとして受けたのです。 キリストの受難の後には、死を滅ぼすほどの希望と幸せがもたらされました。平坦な道だけでは決して人生は歩めません。私たちは必然的に日々いろいろなことに出会います。しかし、何があっても絶対にその先に希望が約束されており、振り返れば「このためだったのだ」と思えるような道を神様は用意してくださっています。初めに引用したイザヤ 61:7 では、何かが壊されたように見えたとき、神様がそこに介入し、回復させると元の倍になって素晴らしいものを得ることになるという約束がなされています。   先が見えない時こそ、信じることの意味があります。信仰とはそのためのものです。 人は心に計画を立てますが、人には地震もパンデミックも予測できませんでした。これからもそうです。突然起こることが人の計画を無にすることがあります。だからこそ、主の計画が必要なのです。 主の計画は人には見えません。人に

メッセージ 主を待ち望む イザヤ書23章18-19節

先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。 イザヤ書 43 章 18 - 19 節    最近、「自分が自分の友達だったとしたら、良い友なのだろうか、友達でいたいだろうか」と考えさせられる機会がありました。人が誰かの良き友でいたかったら、むやみに責めるようなことも、傷つけるようなこともしないはずです。その友の存在の尊さを認め、励ますはずです。ところが、時に人は自分に対しては存在価値を貶めるようなどこか厳しいメッセージを送ってしまいます。  自分の中にいる、自分を苦しめる存在は、歩んできた道のりの過程で作られてしまうものだと思います。人は誰しも生まれたときは一切の悪を知りません。しかしだんだん社会性を身に着け、他者と関わるうちに傷つけられたり、挫折したりします。はじめはまっさらだった自分の存在が、だんだんと価値を貶められるような体験をします。そのような体験から、自分をみじめにさせる自分が生まれ、時々顔を出すようになるのです。    傷となるような体験は、意識の上でも、無意識の上でも人を束縛します。また、そのような体験は不当な扱いを受けた自分自身に罪責感を植え付けることがあります。過去の記憶が今の自分に影響し続けることがあります。しかし、しっかりと整理すべきは、不当なことをされたとき、悪いのは不当なことをする人であって、される人ではないということです。 不当な扱いを受けると、人は自分の価値が貶められるような気がします。しかし、神はあなたを世界の始まる前から計画し、母の胎に宿る前から待ち望んでいたのです。    また私には、何度か周りから「きっとこのように思われているに違いない」とネガティブな方向に考えていたことがありました。しかし、そのたびに蓋を開けてみれば全くそのようなことはなかったという経験をしました。そのような体験を通して、自分に対して意地悪な態度をとっていたのは自分自身だったのだと気づかされました。それ以来、自分は自分の最善の友でいなければと思うようになりました。神がその創造物である人に無限の価値を認めてくださったのだから、長年の体験から降り積もった塵を落として、それを真正面から受け入

メッセージ 私は誰か マタイの福音書5章13-16節

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。マタイ 5:13 - 16  私はイエス様が初めて会った人々にかける言葉が好きです。例えば、ペテロとアンデレに初めて会ったとき、イエス様は彼らにこう語ります。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」  イエス様は相手の本質を見つめた声のかけ方をします。人の最も深い喜びは、自分の本質を見つめてもらうことなのではないかと思います。自分の価値をどこに置くかは重要な問題です。  神学校時代、神学生は奉仕教会を年ごとに変えたり夏季伝道に行ったりといろいろな教会に行きます。神学校内でも全寮制の学校の中でいろいろな人と関わります。それに加え、私これまで何度か引っ越したりしてきたので本当に様々な教会と関わることになりました。  そのようにしてキリスト教世界のコミュニティで大勢の人と初対面になる状態を繰り返すと、次第にそれがストレスになってしまいました。  多くの場合、出会って初めに聞かれるのは年齢、所属教団、出身地、神学校や出身校などでした。初めはなんとも思いませんでしたが、嫌というほど同じ質問に答えるうちに虚しさがこみ上げることが多くなりました。  なぜなら、それらは何一つ私自身の本質を表すものではないからです。それらは私にとっては付随する記号の一つでしかなかったのです。もちろん私のこれまでの経験と結びつくものではあるのですが、記号だけを知ってもらっても、私自身を知ってもらうことには何らならなかったからです。  そんな時、冒頭の聖句を読み、とても心に響きました。イエス様は私の所属など気にかけず、ただ「ついてきなさい」と語るのです。  また、私は仕えることとはキリストと共に生きることそのものだと思いますが、キリスト教世界を見るとキリストではなく「地域教会」や「教派」「教団」「神学校」といった箱に対する忠誠を誓わせるような態度が奉仕ととられることが多いように感じます。それが時に人々の誇りとなってしまう

ハラスメント防止のための牧師先生へのお願い

先日教会内で起こったハラスメントの対応について牧師先生にいくつかお願いをしました。具体的な情報はカットしましたが、教会内でのハラスメント撲滅のため広く認知されてほしい内容だと感じたので以下に私がお願いしたことを掲載いたします。 1 . ハラスメントの相談は大変勇気がいります 。 多くの場合、ハラスメント被害者となりやすいのは弱い立場の人間であり、ハラスメントを訴えることも、目上の方に相談することも、相当な精神力がいります。 そういった方(多くの場合女性)が牧師(多くは男性でありハラスメント被害者より年配)にハラスメント被害を相談するのは、家族や、同世代の方や、同性の方に何か伝えることよりも、もっとずっと負担がかかることです。 だからこそ、勇気を出してやっとのことで相談した際にショックがあると、傷は相当大きいものになってしまうのです。相談を受ける立場として、セカンドハラスメントについてもよくご理解いただければ幸いです。   2.もし、 その前にいた場所で「要注意」と言われている方が教会の交わりに加わる場合は、ハラスメント被害者になる可能性の高い、女性や子供の保護者の方にはそれを伝えてほしいと切に願います。加害者になりえる性質を持った方に女性や子供を近づけるのは、アルコール中毒の方にお酒を勧めるのと同じ行為であることをご理解いただければ嬉しいです。 だからこそ、問題を未然に防げるように被害者となり得る方が自分の身を守れるよう配慮していただければ嬉しいです。   3. いろいろな場所で、結果として加害者が守られるので、被害者は泣き寝入りするしかありません。すると、問題解決は遠のく一方です。これはハラスメント解決において最も避けるべき最悪の事態です。 加害者が被害者に見せる顔と、牧師先生や他の男性などそれ以外の方(加害者にとって自分より強く見える方)に見せる顔が全く異なることを、ご理解いただければ嬉しいです。牧師と加害者は同性(男性)である可能性が高く、同じような弱さを持っていることも多いかと思います。また加害者は自分の性質ゆえに拒絶されるなどの気の毒な性質を持っているので、牧師先生たちは、被害者より加害者の方に感情移入しやすいのです。結果として、牧師先生方が加害者側に味方してしまう例は多いです。 だから曖昧なものに流されず「この人が何をしたのか

メッセージ 私の内のキリスト ガラテヤ人への手紙2章19-21節

  しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 ガラテヤ人への手紙 2 章 19 - 21 節    私たちには体と魂、そして霊があります。ヘブライ人への手紙はそれをこのような言葉で示しています。 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。ヘブル 4:12  キリストを信じると、死んでいた霊にいのちが与えられます。私たちの内に聖霊、神の霊が住まうようになります。たましいは「心」であり、心がキリストのものとされていくのは私たちの生涯をかけたプロセスです。「義化」と「聖化」という言葉を聞いたことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、霊的な救いはキリストを信じたことにより罪が赦され神の前に正しい者とされた時に起こります。「聖化」は心がキリストに従っていく過程で起こります。  この聖化のプロセスは人によって異なるので、一口にキリストを信じるといっても本当に様々なキリスト者がいます。  「放縦な生き方」も問題ですが、神様を忘れて「聖なる生き方」にフォーカスすることにも落とし穴があります。ルターにより信仰による義が改めてキリスト者たちに回復された後、ウェスレーは聖化の大切さを訴えました。聖なる生き方の「方法 メソッド」に重きを置き、メソジストが生まれました。ウェスレーの主張したことはとても大切なことです。しかし、もしそれが行き過ぎになってしまい「こうあるべき」ということに縛られてしまうと私たちは律法主義に陥ってしまい、キリストにある喜びが失われてしまうのです。キリスト教世界のいろいろなところに潜む「こうあるべき」は時に人を苦しめるものになってしまいます。  キリストは「自由」をもたらす存在でした。律法学者たちは旧約の律法を正確に守るため、旧約のみならず新たな決まり事も多く作りそ

メッセージ 今を生きる マタイの福音書6章33〜34節

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。マタイの福音書 6 章 33 - 34 節    私たちの頭の中は日々忙しく動いています。何もしていない時間でも、頭の中は過去に移動したり、未来を思い描いたりします。私が思い悩んでしまうのは、今この瞬間ではなく、過去や未来について考えている時です。「ああすればよかった。」「どうしてこんなことに。」という後悔、また「もしこうなったらどうしよう。」という不確定なことに対する不安は、私たちを混乱に陥らせてしまいます。  神様が私たちに示しているのは「今」この瞬間を生きるように、ということです。イエス様はマタイの福音書 6 章において、心配するのをやめるようにと強く語り掛けます。   「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」マタイの福音書 6 章 26 - 27 節   「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」マタイの福音書 6 章 30 - 31 節    旧約時代、イスラエルの民がエジプトを脱出する際食べ物に飢えたとき、神様はマナという食べ物を彼らに与えました。その日必要な分だけが与えられたので、余ることも足りないこともありませんでした。それを人が明日のためにと余分にとっておくとそれは腐ってしまいました。  神様は人が自分で蓄えて安心することでなく、その日その日に必要なものが必ずご自身から備えられることを信頼するように示したのです。    人が何かを失ってから気づくのは、当たり前のようにそれを手にしていた日常です。健康な時に何も感じなくても、体の一部の調子が狂うと、その部分