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メッセージ 今を生きる マタイの福音書6章33〜34節

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。マタイの福音書 6 章 33 - 34 節    私たちの頭の中は日々忙しく動いています。何もしていない時間でも、頭の中は過去に移動したり、未来を思い描いたりします。私が思い悩んでしまうのは、今この瞬間ではなく、過去や未来について考えている時です。「ああすればよかった。」「どうしてこんなことに。」という後悔、また「もしこうなったらどうしよう。」という不確定なことに対する不安は、私たちを混乱に陥らせてしまいます。  神様が私たちに示しているのは「今」この瞬間を生きるように、ということです。イエス様はマタイの福音書 6 章において、心配するのをやめるようにと強く語り掛けます。   「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」マタイの福音書 6 章 26 - 27 節   「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」マタイの福音書 6 章 30 - 31 節    旧約時代、イスラエルの民がエジプトを脱出する際食べ物に飢えたとき、神様はマナという食べ物を彼らに与えました。その日必要な分だけが与えられたので、余ることも足りないこともありませんでした。それを人が明日のためにと余分にとっておくとそれは腐ってしまいました。  神様は人が自分で蓄えて安心することでなく、その日その日に必要なものが必ずご自身から備えられることを信頼するように示したのです。    人が何かを失ってから気づくのは、当たり前のようにそれを手にしていた日常です。健康な時に何も感じなくても、体の一部の調子が狂うと、その部分