この夏の旅の文集

学校のグループで巡礼に行ったので、その文集用の文章。
ワールドユースデー(世界中のカトリックの青少年が集まる大会)でスペイン
、それから引率してくださった先生の所属するフランスの修道会のキャンプ、東方教会やカトリック、プロテスタントのブラザーが集まって暮らす場所テゼ、ルルド、アヴィラ、セゴヴィアなど聖人の聖地などを訪れた。


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ヴナスクでの長い沈黙の祈りの中で今回の旅を振り返って感じたことは、信仰もまた、キリストと共に歩む旅なのだということです。
 キリスト者は人生の中である時自分の隣にイエス様がいることに気づきます。それは孤独を感じて何かを探し求めたり、苦しんでいる時に心の目が開かれるときだと思います。そしてその時からイエス様と本当に歩む信仰の旅が始まると思います。旅の途中で自分の荷物をイエス様に背負ってもらうこともあったり、反対にイエス様のくびきである愛を背負わせていただいたり、飢え渇いた時には涸れることのない泉から水を与えていただいたりします。また、ヴナスクの静かで美しい夕暮れの中で強く感じましたが、旅の中で出会う被造物、風の音、虫の声、花、木、空、鳥はすべて神様の尽きぬ愛を示します。椿の堅い実を割るのも、空や鳥や花に色を付けたのも、風を吹かせるのも、すべて神様の御業なのだなあと、しみじみ思いました。また旅の中で出会う人はすべて神様が遣わして下さった人であり、神様が私に伝えたいことを、出会う人の口を借りて伝えて下さることもあって、皆イエス様御自身です。今回の旅で出会った一人ひとりが、私にとってイエス様御自身です。隣にいる友達がふと心に残るようなメッセージを伝えてくれることがたくさんありました。出会う人に迫害を与えればイエス様を迫害することになり、出会う人に愛を注げばイエス様を愛することになるのだと思います。信仰の旅の中にはでこぼこの道も曲がった道もありますが、振り返ればそれらの道がすべて神様の愛で真っすぐな道になっていたり、平らな道になっていたりするのに気づくことがあります。
また、旅路の中で砂漠に出会うこともあると思います。しかし砂漠の中にこそ本当の命があるのだと思います。イエス様によって、砂漠の中でイエス様と二人きりになって、命を見つけるのだと思います。パウロが言うように、迫害も艱難も剣も裸も私たちからキリストの愛を引き離すことはありません。それどころか一層強い絆を結びます。その時人間は家族以上に神様が親しい存在となるのかもしれないなと思います。でも、それによってもっと深く人を愛するようになれるのだろうという気がします。そして旅路の最後に、十字架の聖ヨハネが言うように、人生の最後には、これまで歩んできた道によって、私たちは愛について問われるのだろうと思います。先生が「イエス様は神様がどんな方かよく知っておられた」と祈りの導入の中で仰っていたことは本当に印象的で、私たちが問われる愛とはどのようなものか、イエス様がご自身の生き方でもって説いてくださっているのだと強く感じました。
 
テゼで感動したことは、普段何気なく見ている社会的弱者の方、障害のある方が、礼拝堂のあのオレンジの光の中でひと際美しく見えるということでした。それは、神様がそういった方をどんなにか愛しているかが目に見えるようでした。テゼという場所は、本当にキリストの愛を示した聖霊でいっぱいの場所だと感じました。さまざまな教派が共存する空間のなかで、やっぱり神様の前には、天の国にはカトリックもプロテスタントも東方教会もないのだということを強く感じました。そして、天の国の形をあらわそうとした愛の場所だからこそこんなに多くの人が、若者たちがこの場所に惹かれるのだと思いました。ここでは誰も互いの教派を非難しあうことなく、皆がキリストにあって一致しています。本当は誰もが心の奥でそのような状態を求めているのだろうと強く感じました。神様の愛は人間の頭で理解できるような宗教を遥かに超えていますが、テゼではそれが形になって示されていて、ただただ聖霊にゆだねられて神様と私たちのシンプルな関係がそこにある、という感じがしました。
WYD本大会では、強い通り雨と不思議な空の色によって神様が私たちを見ていることがよくわかりました。考えられないような多くの人とともに祈るなか、これだけの人が神様を信じているんだ…ということに強く感銘を受けました。そして、頭の中で、この祭典がすべての教派とともにあったらどんなふうになるだろうと何度も想像しました。それぞれ大好きな聖歌や賛美歌を披露しあって、大好きな友達をつくるだろうなと思いました。それから、テゼのように、すべての教派の人が温かな気持ちで参加できる祈りの時間があるだろうと思いました。大好きな友達をつくった人は、もう二度と友達のいる教派を愛情なくして批判することはなくなると思います。これからもっと教派を超えた交流がさかんに行われるとよいなと思います。深く理解しあえば、神様がどんなにすべての教会を愛しているかがわかります。そして、神様の愛するものを愛したいと思うキリスト者なら、すべての教会を自分の教会として愛するはずです。いつも、イエス様ならどうするだろう、イエス様ならなんというだろうと心にとめていれば、キリスト者が真に求める答えは見えてくるだろうと思います。
 私は旅の中で本当に素晴らしいカトリックの恵みを感じました。神様が導いて下さったからこそ、信仰の先輩であり親しき友である聖人について、そして中学のころから教えられてきた病者を救うルルドという場所について心で深く知ること、感じること、信じることができました。
 ルルドでは、旅の仲間の「皆誰かを治したくてここにきてるんだね…。」という言葉が美しい蝋燭行列の中で胸に響きました。私の母は二年前に病気をしたので、私は母のことをルルドで祈って水を持って帰りました。
 私の母はプロテスタントですが、水を本当に喜んで、患部に水をぬって二人で祈りました。母は聖霊に導かれるようにして自分だけでなく苦しみの中にある他の人々のことも祈っていて、自然と涙が出てきました。
本当に大事なのは、やっぱり愛だと思います。愛があれば本当に様々な障害を超えることができます。私は家族とともにプロテスタントの礼拝に行きますが、学校に行く日はよく昼や夕方にミサにいきます。プロテスタントの教会でするような声に出して自由に共に祈ることも無くてはならない大切なもので、カトリックの教会でするように沈黙の中で祈り続けることも無くてはならない大切なものです。私はどちらの教会にも、大好きな人が、友達が沢山います。私は自分のことをカトリックだとも思っているしプロテスタントだとも思っていますが、それと同時にそのどちらでもないなと思います。不思議な感覚ですが、どちらのことも深く知るにつれて、神様がどちらの教会も同じように溢れる愛の恵みを与えているのを見るほどにそんな感覚が強くなっていきます。
今文章を読み返すと正直自分は何を知っているわけでもなく、弱い人間なのに、なんて偉そうなことを言っているんだろうと思います。でも、今旅を通して感じたことをそのまんま書いてみました。旅の中で出会う人たちは皆私に欠けた素敵なものを持っていて、とても眩しく感じました。
この旅で出会えた人生の素晴らしい先輩たち、素敵な賜物をもった上智グループの兄弟姉妹は本当に神様からの最高のプレゼントです。神様の愛とともにある愛情深い信仰の友達は何にも代えがたい生涯の助けだと思います。
先生が「信仰があるとかないという言い方は間違っている。なぜなら信仰は持ちモノじゃないから。信仰は種であって、育てていくものだ」と最後に仰っていましたが、喜ぶ者と共に喜び、泣く者とともに泣いたこの旅や、一緒に旅した一人ひとりが私の種を成長させてくれていると思います。これからさき、この種が私のVocationを示し、支えてくれるのだろうと強く思います。
 私を導いて下さる神様の御業は本当に深くて理解を超えるほどに不思議です。でも、その御業は、「神は愛です」というみことばに溢れています。
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の旅の直前、地震の被災地、東北にボランティアに行ってきた。
暖かい人にたくさん出会った。面白い大人もいっぱいで、自分がしたことの何千倍も大きな恵みを受けた。どんなふうに皆さんが頑張ってるのか、明るく暮らそうとしてるのか見て、心がうたれた。でも、陸前高田市っていう壊滅的な被害を受けた場所を見て、茫然としてしまった。流されて亡くなった人のことを考えた。神様がなんでこんな事をするのか全然よくわからなくなってしまって、短く一人で祈った。帰ってから教会のミサで読まれたのはローマの八章だった。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中しにさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです。しかし、これらすべてのことによって、私たちは輝かしい勝利を収めています。
私は確信しています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
神様が自分のことを見ているのを感じた。

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