メッセージ「信仰とは」
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル人への手紙11章1節
信仰とは、言い換えるならば信頼です。信仰とは、神への信頼を指す言葉です。例えば私たちは、時刻表を見てバスや電車の来る時間を知り、その時間にバス停や駅に行くことをします。それはつまり、時刻表を信用しているから起こることです。それと同じように聖書のことばを信用すること、それが信仰です。また、「あなたは大切な人です。」と言われた時、それが嬉しいならば、言われた人は「あなたは大切な人です。」という言葉を信用し、それを言った人のことを信頼していることになります。それと同じように神の言葉と神を信頼すること、神であるイエス・キリストを信頼すること、これが信仰です。
信仰は、キリスト教において要です。ただ信じること、これだけが聖書が私たちに求めることです。新約聖書のヨハネの福音書3章16節には次の言葉があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
なぜ、ただ信じることなのでしょうか。それは、人の最初の罪が不信仰、神を信じないことだったからです。
人は神に愛されるために創造されました。人にまだ罪と死が入っていなかったとき、人は神を完全に信頼していました。創造の始め、エデンの園には人に必要なものが全て備えられていました。人は神から「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ。」と言われていました。しかし蛇の姿をしたサタンは「善悪の知識の木から食べてもあなたは決して死なず、神のようになれる。」と偽りを人に言い、食べるよう誘惑しました。人は神ではなくサタンの言葉に従い善悪の知識の木からとって食べました。
このとき人に罪と死が入りました。罪はあらゆる憎しみ、妬み、不の感情の源です。罪に歯止めが利かないとき、諍いや犯罪、戦争が起こります。人間の最初の罪は、人が神を疑ったことでした。それは人が神と、神の言葉を信じなかったこと、つまり、不信仰を意味します。
罪によって断絶された神と人との関係を取り戻すために、イエス・キリストが遣わされました。この方は神の一人子であり、人の罪を代わりに背負って十字架刑で死ぬために生まれてきた方でした。キリストは、私たちが再び神の子供となるための道なのです。この方を信じることが、最初の罪である不信仰を打開する救いの道なのです。
聖書は、十字架上で死んだキリストが死後三日目に復活したことを語っています。キリストは罪だけでなく、死も滅ぼしました。神が死なれることはありません。キリストは今も生きています。キリスト教は人です。道も、真理も、いのちも全てイエス・キリストという今生きている人の内にあります。
この復活のキリストと共に歩む歩みが、信仰者の歩みです。努力ではなく、ただ信頼することが求められるのです。聖書のヘブル人への手紙11章には、「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。またこの箇所は聖書に記された人の信仰について詳しく書かれています。そこに書かれている人々は皆、神の言葉をただ信じたことが讃えられています。まだ目に見えることでは何の確証も得られないときに、神に約束されたその言葉をただ信じて、ついに約束のものを得た人々です。
19世紀、イギリスにジョージ・ミュラーというキリスト者がいました。ミュラーは聖書に書かれている、その同じ神が今も生きていることを証するために、祈りの力を信じていくつもの孤児院を建てました。ミュラーは「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」という本の中で、次のような経験を語っています。
「毎年、孤児の施設の活動が拡大されたので、支出は増大した。しかし、主が私たちを裏切られたことは、一度もなかったのである。あなたはこう言うかもしれない。『もし主があなたを助けるのをやめられたら、どうするのか』と。私たちが主を信じ、罪の中に生活していない限り、そのようなことはあり得ないと、と私は答える。しかし、もし私たちが湧き水の泉である主を捨て、肉の腕に信頼して、貯めることのできないこわれた水ためを掘るなら、あるいはもし罪のうちに生活するなら、たとえ主に信頼していると言っても、主を呼び求めるのはむなしいことである。それはみことばに『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない』(詩編66・18)とある通りである。」
神は、聖書の中で「私はいのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」と語っています。神はあなたを愛しています。だから、神は最善で、最高のものをあなたに与えたいと思っています。不安や恐れが襲ってくるとき、どんなときも私たちは神の愛を信じ、いのちを選ぶことで、私たちは神の用意した最高の道のりを歩むことができます。
ミュラーの孤児院の働きは、決して平坦なものではありませんでした。続けて、ミュラーは同じ本からこうも語っています。
「出費が大きくても、主が私たちを裏切られることは決してなかった。実際、私たちは見たところ『燃える柴』のようであった。しかし決して燃え尽きることはなかったのである。私たちは主に全面的に信頼していたので、年々出費がかさむと予想されたにもかかわらず、勇気に満たされていた。神のために働くことを求めている愛する仲間の信徒すべてが、真に神のみを見つめ、神のみに信頼する祝福を知るなら、すぐにこの道がどんなに魂にとって励ましとなるものであるか、そして神に関する限り、どんなに失望落胆する余地のないものであるかを悟るであろう。地上の友人たちはこの事業に対して意見を変えるかもしれない。しかしもし私たちが神のために働いているなら、人がこの奉仕に対して意見を変えようと、神は変えないのである。地上の友人たちはどんなに私たちを助けたいと思っていても、経済的力を失ってしまうかもしれない。しかし神は永遠に富んだお方なのである。地上の友人たちは注意を他にそらし、たとえ私たちを助けたいと望んでも、あらゆる面で助けることができないので、不本意であっても援助をやめるかもしれない。しかし神はあらゆる面で、たとえ要請が百万倍になっても、必要なものをすべて供給することがおできになる。そしてご自身に信頼してご自身の事業が行われているところでは、喜んでそれをしてくださるのである。地上の友人たちは死んでしまい、私たちを助けられなくなるかもしれない。しかし神は永遠に生きておられる。神が死なれることはない。」
聖書には、イエス・キリストについて「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と語ります。
この言葉は聖書の中で4回繰り返されています。書かれている箇所はイザヤ書、ローマ書で二回、そしてペテロの手紙第一です。繰り返し語られる理由は、これが聖書の最も伝えたい真理だからということにあります。私たちが人生を歩む時、常に「失望」と「希望」、この二つの選択肢があります。聖書は約束しています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」