リバイバルの兆し
「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」使7:48。
最近宗教改革の背景にペストの流行があったという教会史の授業できいた言葉を思い出す。皆が真剣に魂を省み主を仰ぎ見たとき、御手の働きがあったのだ。
礼拝のあり方に変化が起きている今は教会が本質に目が開かれるときなのかなと思う。教会はキリストの身体だ。私たちが教会に行くのではなく、私たちが教会なのだ。
「本当に必要なのは一つだけ」とイエス様が仰るとおり、神様が求めているのはただ神様を信じ、神様と共にいることだけだ。
教団の維持、イベントの企画、CSの聖書の話以外の部分、会報作りなど、教会の仕事は神様以外のことで随分複雑に、忙しくなっている。献身した当初、「あれ?自分はこれがやりたかったのか。。?」と何度も自問自答した。また「説教作りのために」聖書を読むことでいろいろなことを調べ充分聖書を読んでいると錯覚していた。今振り替えれば、自分の魂のために、神様との交わりのために聖書を読まなければ、聖書を全く読んでいないのと同じだったのだと理解できる。聖書は聖書自身が主張するとおり、神がご自身を明らかにするためのものだからだ(ヨハ20:31)
また献身したからこそ、献身した人にだけ何か霊的に特別な権限が与えられるのではないと分かった(献身した人の役割はあると思う)。神の前には皆同様に罪人だ。説教や聖餐や洗礼を行うのも、人の作った制度で与えられる特権ではない。私たちはいつでもどこにいても、神様を礼拝できる。
これまでともすると礼拝すら偶像化される機会があったことで傷ついた方がたくさんいらしたのではないかと思う。いろいろな理由で礼拝に行けないことはある。もし日曜日に交通機関で働いてくれる人がいなければ、多くの人が礼拝には行けない。当たり前のように礼拝に行けることの背景に、礼拝に行かずに働いている人の支えがある。
最近多くの教会が礼拝以外の活動を中止し、物理的に礼拝に出席することを強要しないやり方に切り替えているのは、神様の御手の中にあることなのだろうと思う。家の教会、シンプルチャーチ、オーガニックチャーチが広がっていることにも、何か深い意味があるのだと思う。今、キリスト者は自分たちを縛っていたいろいろな固定観念に気付き、解放され、「ただ主を信じる」ところに立ち返るときなのではないかと思う。
教会はキリストの身体だ。私たちが教会に行くのではなく、私たちが教会なのだ。
固定観念は「信仰以外のものを必要とする」律法主義だ。教会やキリスト教に染み込んだ律法主義でつかれ切った人は多い。
キリスト教の律法は愛だけだ。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」マタイ11:30
これがキリスト教のメルクマールだ。
本来の信仰に皆が立ちかえったとき、再びリバイバルが起こるのを私たちは目にできるかもしれない。