メッセージ 終わらない希望 ローマ5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人への手紙5章5節
先日、ペルセウス流星群を見るために、夜空をずっと見上げていました。普段はそのようなことをしないので、じっと夜空を見ることは私に大切なことを気づかせてくれました。はじめは殆ど星を見ることができませんでした。しかし暗闇に目が慣れ、じっと見ているうちに、想像以上に多くの星が私の目に見えるようになってきました。また、ビルの明かりなど地上の強い光を隠すと、より多くの星を見ることができました。「今まで全く気付かなかったけれど、こんなにたくさんの星が私の上にあったのだ。」そんなことを思いました。
人生においても、暗闇の中で今まで気づくことのなかった美しい宝物に気づかされることがあります。今回は、そのような出来事についてお話ししたいと思います。
「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」第二テモテ3:12
神学生となって以来、私は何度も心が折れそうになる経験をしました。
それはいつも信じていた方々からの突然の拒絶や不当な扱いの形で表れ、何度も心がくじけそうになりました。
このことが神から引き離そうとする者、サタンによる働きだと気づくまでには少し時間がかかりました。
私たちが神様に向かえば向かうほど、そこから引き離そうとする力が働きます。これは聖書に書かれている真実です。神様によって喜びに満ちて歩もうとするとき、真剣にキリストにあって生きようとするとき、必ず人には苦難が伴います。
私がこうした心の折れる出来事に出会ったとき、ジョイス・マイヤーという伝道者の説教での次の言葉が非常に慰めとなりました。
「不当な出来事に出会うとき、間違っているのは不当なことをする人であって、不当な目に合うあなたではない。あなたが大丈夫かどうかを世の中に決めさせないでほしい。神様はあなたを大丈夫だと言っている。神様があなたを母の胎で組み立て、あなたの骨を形作り、神様があなたに人格を与えたのだから。」
私には、ずっと祈ってきたことが、信頼した人の不当な仕打ちという結果に終わったことがありました。
いつもみことばや聖霊に導かれて歩んできたと思っていたので、大きな信仰の試練となりました。神様がわからなくなってしまったり、自分の信仰がおかしいのか考え込んだりしました。
ひどく打ちのめされた私の目の前には、二つの選択肢がありました。この先さらに素晴らしいことが起こるという期待をもって神様を信じるか、神様への信頼を妥協するかです。
私は昔、次のような説教を聞きました。旧約聖書のダニエル書についてで、信仰のために周りから敵視され獅子のいる穴に放り込まれたダニエルが、一切傷を受けずに生還した箇所についてでした。その箇所について語られたことは、「ダニエルには助けが来たけれども、神様からの助けがこないこともある、それを受け入れなければならない。」というものでした。
それを聞いた時の私は、ダニエル書に書いてあるのは奇跡が起こりダニエルが獅子から神様によって救われたことなのに、なぜこの説教ではそのようなことが語られるのだろうと思いました。しかし、試練があったとき、私は神様に失望しかけ、このときの説教で語られたことと同じことを感じてしまいました。それを自覚したとき、この説教を語った方も、多くの試練があるたびに今の自分のような思いを数えきれないくらい抱いたのかもしれない、と思いました。
そして、私はこの試練を通して、一つの選択を迫られていることが分かったのです。さきほど語ったように、さらに希望をもって生き続けるか、失望や諦めを抱きながら生きるかです。
信仰の試練の時に、神様の愛を信じ続けるか、妥協するか。
どちらを選択するのか、私たちには常にその選択が迫られています。
私は祈りが聞かれなかったとき、なぜ長く自分が祈らなくてはならなかったのかということに疑問を抱き、またそのことで深い傷を負ったことで、神様への不信感を抱いてしまいました。しかし同時に、そのときいろいろなことが明らかになり、結果的にその道が開かれなかったことで自分は守られたと思いました。また、それが明らかになったことが私にとってだけの益ではなく、教会にとっての益になったとも感じました。それまで違和感を感じ続けていたことがはっきりと不当な仕打ちという形に現れたとき、どこか自分が呪縛から解放されたような安堵も覚えました。
そして、私が試練の中で見つけた最も深い幸いは、今自分が手にしている幸せに気づかされたことでした。私が悲しみに打ちのめされていると、ずっと見守ってくれた家族から、このようなメールが来ました。
「毎日祈っている。『神様、守ってください、守ってください、守ってください、この子を。宝物です。この子を。』」
私はそれを読んだとき、どんなに深く自分が愛されているかに気付きました。そしてそれはこの世で最も重要なことだと気づきました。私は足りないと思えるものを見て祈り求めていたけれど、一番大切なものを既に与えられている、そしてそれはそれさえあれば何もいらないというくらい価値のあるものだ、ということに気付いたのです。
色々な家庭環境があるので、誰にとっても家族が一番だというわけではなく、ある人にはまた、「それさえあれば何もいらない」という価値のあるものは別の形をしたものかもしれません。
初めに、星空の話をしましたが、もう一つ、これに似た印象的な経験があります。学生時代、聖地巡礼の旅に出た私は、エジプトでシナイ山と呼ばれる山に登りました。砂漠を夜中に登山するので、真っ暗なのではないかと思い、懐中電灯が必要だと思いましたが、山は月明かりで辺り一面が明るく、わざわざ自分で照らす必要はありませんでした。そのとき、「月がこんなに明るいなんて知らなかった」と思いました。また、それまで一度も流れ星を見たことのなかった私は、その夜一生分くらいの流れ星を見ました。
暗闇の中で、普段当たり前のように目の前にあったものが、どんなに光り輝くものだったのかが分かったのです。
私が試練の時に体験したのものはそのようなものでした。また、そのような時、家族をはじめ、本当に信頼できる人の助けが自分に与えられていることも、かけがえのない恵みだと思いました。それまで自分を本当に助けてくれる人々に対しどんなに自分が傲慢であったかも気づかされ砕かれました。
また、祈ったことの結果が不当な仕打ちだと思ったとき、いつも聖書のみことばに導かれるようにして祈ってきたので、みことばへの不信感が沸いてしまいましたが、その試練を助けてくれたのもまた、みことばだったのです。
その試練を通るときに私が読んでいたのはヨブ記でした。ヨブは苦しみながらその理由を問い続けますが、神がついにヨブの叫びに答えだしたとき語るのは、苦しみの理由ではなく、ご自身がすべてを司る全能の神であるということでした。私は、そのとき「なぜこのような目に合うのか」を模索するのではなく神に目を向けるよう語られている気がしました。また不当な仕打ちを受けてしまった翌日、youversionという聖書アプリで見たその日のみことばは、ルカの福音書6章28節「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。」でした。偶然ではないと思いました。
これもまたジョイス・マイヤーの言葉ですが、祝福を祈ることは単に相手がお金持ちになるようにとかそのようなことではなく、第一にその人が神の御前に正しく罪を悔い改めるように導くことです。それを除いて不当なことをしながら生きる人が幸せになれる道はないのです。愛を知らない人が、愛のない行動をします。だから、不当なことをする人は、愛の源である神を本当の意味で知る必要があるのです。私は祈りました。
また、その後「高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」というローマ8章38節のみことばを読みました。災害、無残な事件、戦争、この世には理解を超える悲しいことがたくさんありますが、神の愛はそのようなものに脅かされはしないのです。
私は、その試練において「このようなことで私を神から引き離すことはできない。」と心の中で宣言しました。そして決して簡単ではありませんでしたが再びそれを全て益に変える力のある神に希望を置くことにしました。このようなプロセスを経るうちに、みことばの持つ意味の深さが私の中で以前よりも増していくのがわかりました。
「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11
ヨブ記に記されているヨブは、苦しみのあと試練の前以上の祝福を得ました。また旧約聖書にしるされているヨセフは、兄弟からひどい目に遭い異国で多くの苦労をしますが、やはり最終的に素晴らしい祝福を得ることになりました。また旧約聖書に登場する預言者は多くの試練を通りますが、数千年後、また数百年後、その預言はキリストという光り輝く祝福によって成就したのです。神様の御手にあるとき、そこにあるのは問題ではありません。計画があるのです。しかし、その計画の意味は成就するまでわかりません。人生の歩みの中で私たちがただ神に信頼することが求められているからです。どんな試練があっても、その先に必ず良いことが計画されていることを信じること、祈りは想像通りではなくとも最も良い形で必ず答えられること、それを信じることが、試練において私たちが選択すべき道です。
試練にあったとき、神様への信頼を失うなら、それはサタンの思うつぼです。しかしさらにそのとき私たちが祈るなら、それは素晴らしいことの始まりとなります。諦めず祈り、神様を信じましょう。必ず私たちは、信じたことの結果を見る日が来ます。神様に信頼する者は恥を見ることがないと聖書には何度も記されています。神様に対する希望は、失望には終わりません。
もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。イザヤ書30章19-21節
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。コリント人への手紙第二4章8-10節
「この希望は失望に終わることがありません。」聖書が約束しているのは決して終わることのない希望です。