メッセージ 十字架の意味 1ヨハ4:7-12
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
ヨハネの手紙第一 4章7-12節
あなたは自分の存在をどのように見ているでしょうか。自分の価値をどのように考えているでしょうか。
聖書は、人は誰でも無限の価値があると語っています。人は皆世の光であると語っているのです。人はだれでも、神によって無限の愛で愛されているというのが、聖書の伝える中心メッセージです。
その愛は、初めに読んだ聖書箇所の通り、キリストの十字架によって示されました。
旧約聖書のはじめ創世記には世界の初めについて記されています。人が初めに創造されたとき、人に罪はありませんでした。神は「きわめて善い」存在として人を創造し、人は父であり創造者である神と親密な関係を持っていました。ところがある時神から引き離そうとする存在、サタンに出会います。人の住んでいたエデンの園の中心にはいのちの木と善悪の知識の木がありました。人は園のどの木からも実をとって食べてもよいが、善悪の知識の木からだけは食べてならないと神から伝えられていました。その木の実を食べると死んでしまうからです。ところが人は蛇の姿をしたサタンにそそのかされ神の言葉を疑いその実を食べました。それから人は死ぬようになりました。神の言葉を疑うこと、神ではないものを信じることは罪です。神は愛です。愛から外れた性質、妬み、悪口、高慢、偽りなど、この時から人に罪が入りました。サタンはいつも偽りを語り真実である神を疑わせます。それは創造の初めから現在に至るまで同じです。
もしあなたが自分は価値のない存在だと思うなら、それはサタンの語る偽りです。真実は、神があなたを無限の価値のある存在として定めたということです。
人の罪を贖い、死から救うために与えられたのが救い主キリストでした。
キリストの存在の意味は彼の死と復活にあります。十字架はキリスト教の象徴ですが、十字架が意味しているものはキリストの死です。十字架は当時の刑罰に用いられた、受刑者を磔にするための道具だったからです。
キリストは人の罪をまっさらにするために用いられた神の子供でした。
神は義なる方なので罪を野放しにはしませんでした。しかし私たち人間を深く愛しているので、私たち自身にその罪の罰を負わせませんでした。
それは裁判において、被告人のために罪の賠償金を裁判官自身が払うようなものです。
法律には一事不再理という原理があります。これは事件の判決が確定した時にはその事件を再度審理できないという原則です。
昔、中国で双子の弟が殺人を犯し、兄がその罪を庇うために弟であると偽って自首し、死刑になった事件があったそうです。弟が後から自首しても、その犯罪はすでに処理されていたので弟に刑罰が科されることはありませんでした。イエス様はこの兄のように私たちの罪の代価を払いました。それゆえ、私たちは罪の無い者として神にみなされることとなりました。一点の罪もないイエス様の存在が罪のある私たちに与えられたのです。
イエス様は聖書の中で、「人がその友のためにいのちを捨てること、それ以上の愛はない。」と語っています。それゆえに、十字架は神の愛のしるしなのです。
キリストを信じることは十字架が自分のためのためのものだと理解することです。それは、自分の罪を認め、悔い改めることです。罪は神との関係を断絶しましたが、キリストを信じ罪を悔い改めることで私たちは創造のはじめのように、自分を造り愛してくれる神と何の障害もなく関わりをもつことができるのです。
立ち止まり、自分を見つめ、自分の罪を認めること無しにキリストを信じることはできません。キリストの十字架は私たちの罪のためのものだからです。人は皆罪のある存在なので、完全にはなれません。問題のない人間などいません。
大切なことは、問題を認めるかどうかです。自分を見つめ、罪を見つめ、罪を認めることが、真にキリストを信じることです。そのことによって、人は罪から遠くなることができるのです。罪を認めなければ罪は闇に葬られたままです。しかし罪を認め悔い改めるならば、その人の心は罪に支配されることがありません。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。ヨハネ3:20-21
しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。エペソ5:13-14
東が西から遠く離れているように 主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。詩篇103:12
洗礼を受けて教会に通っていても、本当の意味でイエス様に出会い、罪を認め悔い改めなければ、それはキリスト者とは言えません。
神様に孫はいません。神様にいるのは子供だけです。例え親がクリスチャンで、洗礼を受け教会につながっている人でも、自分自身が一対一で神様と出会っていなければ何の意味もありません。自らの罪を認められないことは周りの人にとっては勿論、自分自身にとって本当に悲惨な結果を招いてしまいます。
アーウィン・W・ラッツァーは「Who Can We Trust?(誰を信頼すれば良いのか?)」という本の中でこのように語っています。
「なぜ人は信頼に値しないのでしょうか?私たちは誰しも理性によって動かされていると信じたいものですが、実際には自分の身勝手な欲望によって動かされています。しかしそれでも、人から良く思われたいという気持ちが強いので、自分の心と正直に向き合うことを無視して、私たちは外見を取り繕うことに特段の注意を払ってしまいます。実のところ、そのような人たちは他者を欺くだけでなく、最終的には自分自身をも欺くことになるのです。自分自身を欺いてしまうと、私たちはやがて邪悪さを帯び始め、自分の病んだ思いを守るために自分の周りの人たちを傷つけながら生きるようになるのです。」
自分を欺いて生きる人は多くいます。教会の中も例外ではありません。そのような人は自分の本当の姿を見つめると、壊れてしまうような恐ろしさを感じ、走り続けてしまいます。しかしそれを止めることができなければ、小さな問題を隠すために益々大きな問題を起こし深く人を傷つけてしまいます。
立ち止まり、ありのままの自分を見つめ、罪を認めて悔い改めること。それがキリストを信じることであり、私たちのいる場所を闇から光へと変えることです。闇に葬られた罪はその人を支配し続けますが、明るみになった罪は、神の御元で光に変わります。
私は生まれた時から教会につながっていましたが、信じているつもりでも、本当に神様に出会うまでは罪がよくわかりませんでした。自分がとりたてて悪いことをしているように思えませんでした。
しかし、本当に神様に出会ったとき、圧倒的な光に照らされるようにして自分の中にある影がはっきり見えるようになってきました。
神様は一点の曇りもない聖なる愛の存在です。しかし自分には愛からかけ離れた性質が深く染みついていたのです。
私に洗礼を授けてくれたのは二十代で日本に宣教師として来てから50年日本で宣教し日本で亡くなったスウェーデン人の牧師でした。愛にあふれたその人を見て私は神様は本物であり、神様に導かれた生き方こそ正しい生き方なのだと思いました。その方は天国に旅立つ前に、次のような言葉を残してくれました。
「聖書に『いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』と書いてあります。キリストにある信仰と希望と愛が、私の人生を変えました。神を愛し、互いを愛し合い、自分を愛する様に、隣人を愛する事こそ、幸せな人生の秘訣です。
この世には確かに悪と罪、苦しみと死がありますが、最後に愛は勝ちます。神は愛だからです。
永遠のいのちの希望があるから、皆さんと天の父の家で再会したいです。キリストの信仰、希望、愛が皆さんにありますよう心より祈ります。」
その方のお葬式で、共に働いてきたスウェーデン人の宣教師の方はこんなことを語っていました。
「ルールに捕らわれない自由な人でしたが、一つだけ例外がありました。それは『人は皆赦されるべきである。人は皆愛されるべきである。』というルールです。」
これこそが、キリストの似姿としてのキリスト者の生き方です。キリストはルールにとらわれず、人に自由を与える存在です。しかし、無限の愛で私たちを愛しています。このスウェーデン人の牧師は、キリストの愛を深く理解していたから、自身も出会う人に無限の愛を与えて生きようとしました。その人は私に生き方を通してキリストを示してくださいました。
あなたは無限の愛で愛された無限に価値のある存在です。十字架は、その愛の結晶です。