メッセージ 信仰と自由 ガラテヤ人への手紙 2章19-21節

 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

ガラテヤ人への手紙 219-21

 

 キリストを信じることは宗教を信じることではないという言葉を聞いたことがある人はいるでしょうか。私は何度かこのような言葉を聞いたことがあります。その真意は、宗教が何を意味するかを理解することによってわかります。世の中の宗教は「決まり事」を持っています。独自の善悪の基準を持ち、決まっている通りにこうすれば救われるというセオリーがあるのが宗教なのです。救われるために、私たちには何かをする必要があるとするのが宗教です。

 

 私自身もキリストを信じることは宗教に入ることではないと思っています。本来信じること以外に何も必要としないのが聖書の真理だからです。しかし、「キリスト教」となると、そこには組織によるいろいろな束縛や重荷が伴い、歴史の中で絶えず争いが起こりました。本来は宗教でないものが歴史の中で宗教となってしまったのです。

 

 キリスト教を宗教としたもの、これが律法主義です。キリストが地上で最も強く批判したのは他でもない律法学者たちであり、キリストを最も憎み殺すことを画策したのも律法学者たちでした。またパウロは書簡において、他のどの罪でもなく、律法主義に対して最も強い警告をしています。ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、またヘブル人への手紙も、全て中心にあるテーマは律法主義からの解放、つまり信仰による義です。

 

 これは、律法主義がキリストのもたらした、ただ信じることによってのみ得られる恵みを歪ませる力を持っているからです。律法主義は、キリストがもたらす救いの根幹を揺るがすものなのです。

 

 律法と律法主義は異なるものです。旧約聖書は律法に多くの部分を割いています。律法とは神から与えられた法律です。つまり、罪に対する基準です。その量は膨大で、到底全てを守ることは不可能です。

 

「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ローマ人への手紙320

 

「実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。」ローマ人への手紙415

 

 律法は守って神に良しとされるためではなく、私たちに「罪」があることを明らかにするためのものなのです。殺してはならないという法律がなければ、例え人を殺しても犯罪にはなりません。基準がなければ違反、つまり罪は明らかになりません。律法はそれ自体で人を救うことはできませんが、人の問題を明確にします。律法は医者ではなく、レントゲンの役割を果たすものなのです。

 

 律法主義は信仰以外のものによって神に良しとされようとする生き方です。これは聖書の時代から現代に至るまで常にキリスト者を試みる問題となっています。キリストやパウロだけでなく、アウグスティヌスやルターもこの問題に対峙しました。この問題は今もキリスト教の中に根強く蔓延っています。

 

 私は神学校を出るまではこの律法主義に強く捕らわれていました。例えば学生時代友人と居酒屋に行くことに罪悪感を覚えたこともあれば、教会学校やキャンプのスタッフに何か勝手なプレッシャーを感じて立候補したこともありました。キリスト教学生団体の役員を断った時には大きな罪悪感を覚えました。神学生になると睡眠を削ってまでも益々教会の奉仕に明け暮れ、献金に対しても何か喜びというよりはプレッシャーから多くを捧げようとしました。とにかく何かをしなければということに縛られていて、次第に喜びは焦りや疲労へと変わっていきました。

 

 不思議なことに「神様のためのこと」に明け暮れることで神様と離れていくような状態に陥ってしまいました。聖書を読むのも説教や教会学校のメッセージのため、祈りは神学校や教会の祈祷会で・・と聖書を読んだり祈ったりすることもノルマ化していきました。

 

 そんな生活を続けているうちに燃え尽きてしまい、何もできなくなってしまいました。そこでやっと私はすべての奉仕をやめて、自分自身のために聖書を読み、一人で祈るようになっていきました。

 そして、キリストを信じて生きる上で最も大切なことは、復活し生きているキリストとの関わりなのだと気づいたのです。

 

 教会に深くコミットしている人ほど、神様についての事柄に忙しくなり、神様との時間が無くなっていることがあります。無自覚にそれに陥ると、神様に対する喜びや信頼はどんどん薄れ疲労が溜まってしまいます。何かをすること、何かを順守することがキリストを信じることに成り代わること、これこそが、聖書が最も強く警告していることなのです。「信じること」以外の決まりごとが人を縛り、人を責め、分裂を引き起こします。無条件の恵みが条件付きになることで、全てが歪んでしまいます。

 教会に行くこと、礼拝すること、聖書を読むこと、祈ること、このようなことすらも、律法主義に陥った途端喜びを与えるものではなく喜びを奪うものとなり、無意味なものとなります。

 

 律法主義は、信仰+何かです。何かをすること、しないことで「良いキリスト者」であろうとすること、これが律法主義です。

 キリスト教は人です。道も真理もいのちも、すべて今復活し生きている一人の方、キリストの内にあります。この方が完全な教理であり神学です。

 

 キリストを信じることは、キリストと共に生きること、ただそれだけです。それが無ければ何の意味もなく、それさえあれば何もいらないのです。

 キリスト者が守るものがあるとすれば「愛すること」それだけです。愛は律法を全うすると聖書で語られています。全ての律法を凌駕するもの、それが愛なのです。

 

 キリストに似た者、つまり愛する者として生きようとすれば、内面の変化から必然的に「これをしたい、これをしたくない」ということがあるかもしれませんが、それは結果であって、はじめから「なにをすべき、何をしてはいけない」という決まり事で人を縛るのは、根本的に間違っているのです。

してはいけないこと、すべきことに焦点を当てるのではなく、生けるキリストに焦点を当てて生きるよう私たちは導かれています。この方こそいのちなのです。

 

神様が求めているのは、ただ「信じる」、本当にそれだけなのです。

 

信じてキリストと共に生きるとき、私たちの身体はキリストの身体となります。私たちの手はキリストの手袋となり、私たちの足はキリストの靴となります。そのようにして生きるとき、私たちはキリストの似姿として生きることができるのです。それこそが信仰による自由な生き方です。

 

キリスト教のために何かをするのではなく、キリストと共にキリストによって生きること、これがキリストに出会った者の生き方です。

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