メッセージ 礼拝とは ローマ12:1
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。ローマ人への手紙12章1節
礼拝とは何でしょうか。多くのキリスト者は日曜の午前に集まって「礼拝」という時間を持ちます。互いに同じ主を信じる者が励ましあい、共に主を見上げるのはとても大切なことです。しかし、聖書が語る礼拝の本質は、それ以上のものです。これは、聖書の語る教会が建物や組織ではなく、キリストの身体である私たち一人ひとりを指しているのとよく似ています。聖書が語る礼拝は、物理的なもの以上の、私たちの生き方そのものを指します。冒頭で語ったローマ人への手紙12章1節はこのことをはっきりと示しています。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
自分自身を神様のものとして生きる、これが神様の求める礼拝です。
勿論毎週の礼拝を守ることは尊いことなのですが、誤解を恐れずに言うならば、神様にとって重要なのは私たちが毎週の教会の礼拝に出席するか否かではなく、その人が神様と共に生きているかどうかなのです。
今生きているイエス様と共に歩んでいるかどうか、これだけが、キリスト者にとって重要なことなのです。そのようにして生きることが本当の礼拝だからです。
イエス様はサマリアの女性に対して礼拝について次のことを語っています。
「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」ヨハネの福音書4章21-24節
イエス様は、固定された場所ではなく、自由にどこででも礼拝する時代が来ることを語りました。また、神様の喜ぶ礼拝は、御霊と真理によるものであるとお話しされました。
神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。詩篇51:17
神様は心を見られます。ヤコブ書は行いの伴わない信仰に警鐘を鳴らします。
聖書を読んでも、神に従って生きなければ意味がありません。「互いに愛し合いなさい。」というみことばをいくら覚えても人を愛さなければ意味がありません。日曜に欠かさず礼拝出席しても、神を愛さなければ何の意味もありません。
もしすべてのキリスト者が「愛しなさい」という教えをもっと真剣に捉えることができれば、今日のキリスト教の現状のようなことは起こりえなかったでしょう。キリスト教には様々なグループがあります。もし私たちが互いに批判することをやめ、本当に愛し合うならば、それ以上の宣教はありません。本当に私たちが愛に従って生きていくことができるならば、教会で傷ついて去っていく人もいなくなり、キリストを受け入れる人も溢れる泉のごとく起こされるでしょう。愛を必要としない人はいないからです。
私たちはキリストの身体です。私たちの手足をキリストの手足として用い、私たちの眼差しをキリストの眼差しとし、私たちの舌をキリストの言葉のために用いるとき、私たちに出会う人は、私たちのうちに神を見ます。そのような生き方が、神への最高の礼拝です。