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メッセージ 平和を築く愛の花束 ヨハネの福音書13章34-35節

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。 ヨハネ 13:34 - 35                    先日友人がとても素敵な本を贈ってくれました。ご存知の方も多いかもしれません。モーリス・ドリュオン作の『みどりのゆび』という本です。児童文学ですが、大人こそ読むべきと思える素晴らしい反戦の書です。この本が伝えているのは「愛の力」だと思います。愛の力を突き詰めた結果、反戦の書となっていると言えるのかもしれません。  ネタバレになってしまいますが、少し詳しくこの本について紹介させてください。 主人公のチトという子供は、画一的な学校の教育に馴染めず、両親の判断で独自にいろいろな大人について教育を受けることになります。あるとき庭師について園芸について学んでいたチトは、その庭師から「みどりのおやゆび」を持っていることを見出されます。チトのおやゆびをもってすると、瞬く間にあらゆる種が実を結び花を咲かせるのです。  チトはいろいろな大人について街を見回りますが、そこには花を必要としている多くの場所があることに気づきます。そしてチトは刑務所に、また病院にみどりのおやゆびを使って花を咲かせ、そこにいた希望のない人々に生きる希望を与えるのです。  チトはあるとき戦争の噂を聞きます。チトは始め戦争が何を意味するのかを知りませんが、大人がひそひそと話しているのを聞いてこのように思います。 「戦争というのは、ひとびとがひそひそ声でしか話さないから、きっと正しくない、みにくいことなんだ、よっぱらいよりもたちのわるいおとなの病気なんだ、貧乏よりもひどくて、犯罪よりも危険なんだろう」(モーリス・ドリュオン作、安東次男訳『みどりのゆび』岩波書店、 1977 , 125 - 126 頁) チトはその後、その物語の中で起きているバジー国とバタン国の戦争についてより詳しく聞き、考えます。   ≪もしぼくのききちがいでなければ、バジーとバタンは石油のために戦争を始めようとしていて、...

メッセージ 聖霊に導かれる歩み 使徒の働き2章1-3節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。 使徒の働き 2 章 1 - 3 節    もうすぐ聖霊降臨祭(ペンテコステ)ですね。これはイエス・キリストが復活し、天に昇った後、聖霊が降った時のことを記念した日です。その日を記録した記述が、上に引用した聖書箇所です。ペンテコステは五旬節を表すギリシャ語に由来した言い方です。  イエス様は生前、このような約束をします。「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」ヨハネの福音書 14 章 16 節。この約束が成就されたのが聖霊降臨の出来事です。イエス様は死とともにご自身の霊を引き渡されましたが、その神の霊が、皆に与えられるものとなりました。これは私たちにとっても例外の出来事ではありません。コリント人への手紙第一 12 章 3 節には次のような言葉があります。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』ということはできません。」人がキリストを信じることは、聖霊の働きによるのです。  イエス様はこの聖霊を「助け主」と呼びました。私たちの内におり、同時に私たちを包む人格化された愛、それが聖霊です。この聖霊に導かれて歩む道が、キリストを信じた者の道です。聖霊は私たちを正しい方へと導く、神様の GPS のようなものです。この GPS に正しく導かれ歩むとき、キリスト者の人生は神の栄光を余すことなく光り輝かせるものとなります。  私の大好きなキリスト者に、マザー・テレサとジョージ・ミュラーがいます。マザー・テレサはご存知の通り、「神の愛の宣教者会」の創立者であり、貧しい人々の隣人として生き抜いた人です。ジョージ・ミュラーは 19 世紀、イギリスで多くの孤児院を設立した牧師です。彼は、「聖書に記された神が今生きていることを証する」ために生きました。ミュラーは祈りと信仰のみによって、次々と大きな孤児院を設立し、多くの孤児たちを救いました。  貧しい人々を救ったマザ...

メッセージ 主は生きておられる 詩篇18篇46節

主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神。 詩篇 18 篇 46 節   主のご復活おめでとうございます! 「主は生きておられる。」この言葉は聖書の中に何度も何度も登場します。人が主を信じるのは、聖書が単に「良い価値観」を示しているからではありません。それが現実だからです。神学者であり、ナルニア国物語の作者の C.S. ルイスは「キリスト教は、もし偽りであるなら、まったく重要ではなく、もし真実なら無限の重要性を持つ教えである。ただ一つありえないのは、ほどほどに重要であるということである。」(ニッキー・ガンベル『アルファ人生の疑問』アルファ・ジャパン、 2003 年、 16 頁。 / C.S. Lewis, Timeless at Heart, Christian Apologetics )と述べています。キリストは現実だからこそ、重要なのです。 例えば、人は生きるのに酸素を必要とします。それを知っていながら、「人に酸素は必要ない。」「人は水素だけを吸って呼吸する。」「酸素が必要な人もいればそうでない人もいる。」というような発言をする人はいないのではないかと思います。キリストを世に送った神がいること。キリストが現実に地上を生き、今なお復活して生きているということは、紛れもない現実なのです。だからこそ、その啓示である聖書も事実を示しているのです。これが真実ならば、中途半端な重要性を持っているのではなく、真実としての、無限の重要性を持っているということなのです。 私たちが主を信じているのも、「現実に」「生きている」キリストに出会ったからだと思います。風は目に見えないけれども、確かに存在していることがわかります。それと同様に、目には見えないけれども、心に圧倒的な光をもたらすキリストが確かに存在すると確信することができるから、私たちはキリストを信じたのです。   ここ数年、また最近は特に、いろいろなニュースによって将来に不安を抱える人、情報に混乱してしまう人、希望を失って日々を過ごしている人も多くなってきたように思います。しかし、主は既に「世に勝った」と聖書に宣言しているのです。先のことは人にはわかりません。けれども、先のことは心配しなくても良いのです。なぜなら、「神があなたを愛している」からです。 ...

メッセージ あなたが宣教師 マタイの福音書28章19〜20節

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。 (マタイ28:19〜20) 500年前、宗教改革者達は万人祭司という言葉を主張しました。しかし、制度としての教会の在り方は非常に強固なものだったので、文字通りそれを実行するのは非常に難しく、今なお能動的にキリストを伝える役割と受動的にそれを受け取る側の役割というものは続いています。  もちろん一人ひとり役割があるので、皆に伝える働きをするため特定の人が聖書について深く学ぶ時間を多く持つことにも意味があります。  しかし、献身を決意し神学校で学びをし、教会で奉仕してから、私は聖職というものについて多くのことを考えさせられるようになりました。まず、当たり前ですが、教職者や聖職者、つまり牧師や司祭は同じ人間であるということです。人には皆弱さも罪もあります。しかし現状牧師が人間として信徒を頼り、パーソナルな相談をするのはなかなか難しい状況があります。どうしても聖職者が信徒と対等な関係を築くのは難しく、教会には、あくまでも教える立場と教えられる立場という関係性を崩せないものがあるのです。  また、神学や聖書学を学べば聖書について理解できるかというと、そうでもないということも神学校やその前に神学を学んでいた経験から感じる面がありました。勿論無意味ではありません。時間をとって聖書と向き合うことができることや、原語や時代背景や様々な解釈を学ぶことが聖書理解の助けになることも大いにあります。しかし時にはそのようにして得た知識が素直に信じることの妨げになることもあります。聖書が「聖書」として現在私たちの手元にあるということに神様の働きを認める必要があるのだと思います。  このようなことから、聖書の神髄というか、聖書理解において最も大切な、書かれた神様の意図は、勉強して得られるというものではないのだと私は感じました。  不思議なことに、私が聖書と親しくなったと感じたのは神学校を出た後のことです。聖書が本当に私を助ける言葉を与えてくれると心から感じて読むようになってから、繰り返し聖書全体を読むようになりました。そして聖書全体を読むほどに聖書の細かな...

メッセージ あなたの光 イザヤ60:1

  起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。イザヤ書 60:1-3                                                                                 今年もクリスマスの時期がやってきました。キリストを信じる者にとっては、暖かな希望に溢れる時期だと思います。  今年もいろいろなことがありました。特に、コロナウイルスの流行に加え、ウクライナとロシアでの戦争は、私たちの心を大きく騒がす出来事だったと思います。  日々のニュースを見ていると、世の中では悲しいことばかりが起こっているように思います。しかし、実際世の中には悪いことよりも良いことのほうがずっと多いのです。 神様は「良い」神様です。そして私たち一人一人をこの上なく愛しています。それを心から信じるとき私たちは何かが起こった時にそれを前向きに捉える選択ができるのだと思います。  生きていれば、日々の生活の中で時に些細なことでも心が動揺させられることもあります。多くの場合落ち込むきっかけになるのはそのようなことかと思います。私にはこのことを考えさせられるのに印象的だった出来事があります。 私が神学生の頃、卒業間近、修士論文の発表会がありました。これは最終的な提出前の第一稿の段階で行うものでした。発表を行うと指導教官をはじめとする先生方が改善点を多く指摘してくださいました。正直それまでいくら原稿を送っても一向に指導教官から具体的なアドバイスを得られず不安だったので、そのとき、やっと何か...

メッセージ 全てを益とする神 ローマ人への手紙8章28節 

  神を愛する人たち、すなわち神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。ローマ人への手紙8章28節  今これを読んでくださっている方は、それぞれいろいろな状況の中で日々を過ごしていらっしゃると思います。  聖書に登場する人物は、順風満帆といった人生を歩むことは殆どありません。真直ぐに神を信じたものほど迫害に遭い、迫害者から逃げたり、大きな試練を通りながら歩みます。 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」 と第二テモテの三章にあるとおりです。しかしそのような信仰のある人々は皆、生ける神の介入により、代えがたい喜びを得て生きています。ヨセフもまた例外ではありませんでした。  ヨセフは旧約聖書の族長時代に生きた、ヤコブの子供の一人です。イスラエルに生まれたヨセフには兄弟が多くいましたが、ヨセフの兄たちは父親が彼をだれよりも愛しているのを見て、ヨセフを憎んでいました。ある日ヨセフは二つの夢を見ます。一つは畑で束を作っているとヨセフの束が起き上がり、兄たちの束が周りに来てヨセフの束を伏し拝むというもので、もう一つの夢は、太陽と月と 11 の星がヨセフを伏し拝むというものでした。これらの夢についてヨセフが兄たちに話すと、兄たちはますますヨセフを妬むようになりました。そこでこの兄たちはヨセフを殺すことを企てます。   どうにかそのことは思いとどまったもののヨセフの兄たちは彼を穴に放り込み、ミディアン人の通りがかりの商人に売ってしまいました。商人はヨセフをエジプトへと連れていきます。ヨセフはエジプトの地で、王であるファラオに使えるポティファルという人物に買い取られます。ポティファルは神がヨセフとともにいてすべてを成功させてくださるのを見ました。ヨセフによってポティファルの家は祝福されました。ところがポティファルの妻はヨセフに毎日言い寄るようになりました。ヨセフが彼女から逃れようとすると、彼女はヨセフを貶め家から追い出してしまいます。ポティファルは妻に騙されヨセフを監獄に入れました。しかし「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうように」されました。監獄でヨセフは一緒に拘留されていた者たちの夢を聞き、その意味を解き明かしま...

メッセージ 生きてほしい エゼキエル18:32

  なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない――神である主のことば――。だから立ち返って、生きよ。エゼキエル書 18 章 32 節    最近若い人が自ら命を絶ってしまうというニュースを聞くことが多くなりました。閉塞感や孤独感を一層強く感じざるを得ない状況の中、苦しい思いで生きている人の心が一層蝕まれてしまっています。  今回は「誰かに届けば」という気持ちで自殺を考えている人をテーマに書きます。  「死にたい」という思いは希死念慮として鬱の度合いを測る基準のようなものとなっていますが、うつ病と診断されているかどうかに関わらず襲ってくる思いではないかと思います。行動に移してしまうかどうかは、その思いを抱いていることが要因となるので、「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは絶対に軽視できないものです。 同時に、この思いはごく限られた人のものだけではないという側面もあると思います。「死にたい」「消えたい」「もうすべてを終わらせたい」という思いは決して異常なものではなく、傷を受けた人の持つごく正常な感覚であり、同時に「この人なら大丈夫」ということも決してないということです。  自殺は本人が相当苦しんだ結果として起こります。そしてその殆どの場合、苦しみの原因は直接的であれ間接的であれ周囲の人々、あるいは過去にその人のそばにいた人々が作っています。その意味で、自殺とは他殺なのだと思うのです。結果として直接手を下したのが本人であっても、その人をそのような行動に至らせてしまった人々による殺人なのです。つまり、「悪意」や「暴挙」「自己中心的に相手を振り回すこと」「優しさの欠如」は人を殺す力のあるものであるということです。その一つ一つがごく些細に思えるものであっても、親子関係や大人が子供に対してするように絶対的主従関係の中で行われたものであったり、深く信頼した人から行われたり、入れ代わり立ち代わり複数の人から行われたり、長期的に続いたり、多くの人が集団でおこなったり、組織ぐるみで行われていることは非常に大きな力をもってそれを受けた人を苦しめます。行った人にとってはごく小さなことと思えても、悲惨な結果を生み出す可能性は十分にあります。動機に愛の一切ない振る舞いは相手の傷になる可能性を秘めています。愛が動機でな...

メッセージ 私の平和 ヨハネ14章27節

  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。ヨハネ 14 章 27 節 イエス様は私たちに平和を与えました。平和は、一人一人の心の中から造られます。世界とは決して漠然としたものではなく、私たち一人ひとりよって構成されています。世界を平和にできるのは、私たち一人ひとりです。心に平和があれば、他人を攻撃することやお金のために他人を苦しめるような決断をしません。しかし、心の平和は、愛を知っている人だけが実現できるものです。真の平和は愛によって実現されます。自分の心に平和を築くことを決意することが、同じ過ちを決して繰り返さないことへの第一歩なのです。 永遠に変わらない方は、神のみです。これに対し罪に侵された人間の道徳感覚というものは如何に危ういものでしょうか。人類の歴史を概観すると、これは顕著に顕れています。第一次世界大戦において、近代武器は相当に発展しており、 すでに人間が槍と盾とで戦った時代は過ぎ去っていました。「戦争をなくすための戦争」と言われた第一次世界大戦でしたが、終戦時結ばれたヴェルサイユ条約では戦勝国が一方的に、復讐ともいえるような賠償を戦敗国ドイツに求めた結果、新たな憎悪が生まれ、打倒ヴェルサイユ体制を謳うヒトラーのような人物の出現は不可避となってしまいました。 原子爆弾投下やホロコーストにみられる取り返しのつかない間違いの根本的な原因を、多くの人間は知ることがありません。罪を知る者、キリスト者だけが、その根本的な原因を知ることができます。 第二次世界大戦後、戦争防止と平和強化のため建てられた国際連合教育科学文化機構、ユネスコのユネスコ憲章前文には次の言葉があります。 「戦争は人間の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」 人の心の中の罪が問題にされない限り、人の心に平和が築かれることはなく、それゆえ戦争が止むことはないでしょう。私たちが戦争責任を他人の問題として責め立てている限り、決して真の平和が世界に訪れることはありません。戦争は人の心の中、つまり全人類の内にある罪に起源するものです。 人の世において、正義は存在するのでしょうか。世界の歴史と現状を見る限り、唯一の基準となる正しさなどは存在しません。 ヘブル人への手紙は人の在り方を描写するのに、「邪悪な良心」とい...

メッセージ 信仰の意味 イザヤ61:7

  あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。 イザヤ 61 章 7 節    私には、キリストが苦しみを知っており、人の苦しみを人として味わい尽くしたことが、筆舌に尽くしがたいほど自分の支えとなることがあります。十字架にかかる前夜血の汗を流すほど苦しみ、その後裏切られ、正しいことをしながら嘲笑され罪人とされたのがキリストです。だからこそ、困難に出会うとキリストが十字架にかかる前に受けられた苦難を思い出し、主が共にいてくださることを実感できるのです。 聖書によれば、イエス・キリストは神であり、神の御子です。この方は、人の罪を贖い、人に永遠のいのちを与えるために世に来られました。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書 3 章 16 節 。聖書は、神が愛であると語っています。神の愛、この世で最も大きな愛はイエス・キリストという人の形をとって世に来られました。 キリストはこの世のすべての罪を背負って、十字架に架かりました。罪を悔いた人のためだけではなく、罪を罪と知らずにご自身を痛めつける人のために祈り、彼らの罪を身代わりとして受けたのです。 キリストの受難の後には、死を滅ぼすほどの希望と幸せがもたらされました。平坦な道だけでは決して人生は歩めません。私たちは必然的に日々いろいろなことに出会います。しかし、何があっても絶対にその先に希望が約束されており、振り返れば「このためだったのだ」と思えるような道を神様は用意してくださっています。初めに引用したイザヤ 61:7 では、何かが壊されたように見えたとき、神様がそこに介入し、回復させると元の倍になって素晴らしいものを得ることになるという約束がなされています。   先が見えない時こそ、信じることの意味があります。信仰とはそのためのものです。 人は心に計画を立てますが、人には地震もパンデミックも予測できませんでした。これからもそうです。突然起こることが人の計画を無にすることがあります。だからこそ、主の計画が必要なのです。 主の...

メッセージ 主を待ち望む イザヤ書23章18-19節

先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。 イザヤ書 43 章 18 - 19 節    最近、「自分が自分の友達だったとしたら、良い友なのだろうか、友達でいたいだろうか」と考えさせられる機会がありました。人が誰かの良き友でいたかったら、むやみに責めるようなことも、傷つけるようなこともしないはずです。その友の存在の尊さを認め、励ますはずです。ところが、時に人は自分に対しては存在価値を貶めるようなどこか厳しいメッセージを送ってしまいます。  自分の中にいる、自分を苦しめる存在は、歩んできた道のりの過程で作られてしまうものだと思います。人は誰しも生まれたときは一切の悪を知りません。しかしだんだん社会性を身に着け、他者と関わるうちに傷つけられたり、挫折したりします。はじめはまっさらだった自分の存在が、だんだんと価値を貶められるような体験をします。そのような体験から、自分をみじめにさせる自分が生まれ、時々顔を出すようになるのです。    傷となるような体験は、意識の上でも、無意識の上でも人を束縛します。また、そのような体験は不当な扱いを受けた自分自身に罪責感を植え付けることがあります。過去の記憶が今の自分に影響し続けることがあります。しかし、しっかりと整理すべきは、不当なことをされたとき、悪いのは不当なことをする人であって、される人ではないということです。 不当な扱いを受けると、人は自分の価値が貶められるような気がします。しかし、神はあなたを世界の始まる前から計画し、母の胎に宿る前から待ち望んでいたのです。    また私には、何度か周りから「きっとこのように思われているに違いない」とネガティブな方向に考えていたことがありました。しかし、そのたびに蓋を開けてみれば全くそのようなことはなかったという経験をしました。そのような体験を通して、自分に対して意地悪な態度をとっていたのは自分自身だったのだと気づかされました。それ以来、自分は自分の最善の友でいなければと思うようになりました。神がその創造物である人に無限の価値を認めてくださったのだから、長年の体験から降り積もった塵を落として、それ...

メッセージ 私は誰か マタイの福音書5章13-16節

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。マタイ 5:13 - 16  私はイエス様が初めて会った人々にかける言葉が好きです。例えば、ペテロとアンデレに初めて会ったとき、イエス様は彼らにこう語ります。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」  イエス様は相手の本質を見つめた声のかけ方をします。人の最も深い喜びは、自分の本質を見つめてもらうことなのではないかと思います。自分の価値をどこに置くかは重要な問題です。  神学校時代、神学生は奉仕教会を年ごとに変えたり夏季伝道に行ったりといろいろな教会に行きます。神学校内でも全寮制の学校の中でいろいろな人と関わります。それに加え、私これまで何度か引っ越したりしてきたので本当に様々な教会と関わることになりました。  そのようにしてキリスト教世界のコミュニティで大勢の人と初対面になる状態を繰り返すと、次第にそれがストレスになってしまいました。  多くの場合、出会って初めに聞かれるのは年齢、所属教団、出身地、神学校や出身校などでした。初めはなんとも思いませんでしたが、嫌というほど同じ質問に答えるうちに虚しさがこみ上げることが多くなりました。  なぜなら、それらは何一つ私自身の本質を表すものではないからです。それらは私にとっては付随する記号の一つでしかなかったのです。もちろん私のこれまでの経験と結びつくものではあるのですが、記号だけを知ってもらっても、私自身を知ってもらうことには何らならなかったからです。  そんな時、冒頭の聖句を読み、とても心に響きました。イエス様は私の所属など気にかけず、ただ「ついてきなさい」と語るのです。  また、私は仕えることとはキリストと共に生きることそのものだと思いますが、キリスト教世界を見るとキリストではなく「地域教会」や「教派」「教団」「神学校」といった箱に対する忠誠を誓わせるような態度が奉仕ととられることが多いように感じます。それが時に人々の誇りとなってしまう...

ハラスメント防止のための牧師先生へのお願い

先日教会内で起こったハラスメントの対応について牧師先生にいくつかお願いをしました。具体的な情報はカットしましたが、教会内でのハラスメント撲滅のため広く認知されてほしい内容だと感じたので以下に私がお願いしたことを掲載いたします。 1 . ハラスメントの相談は大変勇気がいります 。 多くの場合、ハラスメント被害者となりやすいのは弱い立場の人間であり、ハラスメントを訴えることも、目上の方に相談することも、相当な精神力がいります。 そういった方(多くの場合女性)が牧師(多くは男性でありハラスメント被害者より年配)にハラスメント被害を相談するのは、家族や、同世代の方や、同性の方に何か伝えることよりも、もっとずっと負担がかかることです。 だからこそ、勇気を出してやっとのことで相談した際にショックがあると、傷は相当大きいものになってしまうのです。相談を受ける立場として、セカンドハラスメントについてもよくご理解いただければ幸いです。   2.もし、 その前にいた場所で「要注意」と言われている方が教会の交わりに加わる場合は、ハラスメント被害者になる可能性の高い、女性や子供の保護者の方にはそれを伝えてほしいと切に願います。加害者になりえる性質を持った方に女性や子供を近づけるのは、アルコール中毒の方にお酒を勧めるのと同じ行為であることをご理解いただければ嬉しいです。 だからこそ、問題を未然に防げるように被害者となり得る方が自分の身を守れるよう配慮していただければ嬉しいです。   3. いろいろな場所で、結果として加害者が守られるので、被害者は泣き寝入りするしかありません。すると、問題解決は遠のく一方です。これはハラスメント解決において最も避けるべき最悪の事態です。 加害者が被害者に見せる顔と、牧師先生や他の男性などそれ以外の方(加害者にとって自分より強く見える方)に見せる顔が全く異なることを、ご理解いただければ嬉しいです。牧師と加害者は同性(男性)である可能性が高く、同じような弱さを持っていることも多いかと思います。また加害者は自分の性質ゆえに拒絶されるなどの気の毒な性質を持っているので、牧師先生たちは、被害者より加害者の方に感情移入しやすいのです。結果として、牧師先生方が加害者側に味方してしまう例は多いです。 だから曖昧なものに流されず「こ...

メッセージ 私の内のキリスト ガラテヤ人への手紙2章19-21節

  しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 ガラテヤ人への手紙 2 章 19 - 21 節    私たちには体と魂、そして霊があります。ヘブライ人への手紙はそれをこのような言葉で示しています。 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。ヘブル 4:12  キリストを信じると、死んでいた霊にいのちが与えられます。私たちの内に聖霊、神の霊が住まうようになります。たましいは「心」であり、心がキリストのものとされていくのは私たちの生涯をかけたプロセスです。「義化」と「聖化」という言葉を聞いたことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、霊的な救いはキリストを信じたことにより罪が赦され神の前に正しい者とされた時に起こります。「聖化」は心がキリストに従っていく過程で起こります。  この聖化のプロセスは人によって異なるので、一口にキリストを信じるといっても本当に様々なキリスト者がいます。  「放縦な生き方」も問題ですが、神様を忘れて「聖なる生き方」にフォーカスすることにも落とし穴があります。ルターにより信仰による義が改めてキリスト者たちに回復された後、ウェスレーは聖化の大切さを訴えました。聖なる生き方の「方法 メソッド」に重きを置き、メソジストが生まれました。ウェスレーの主張したことはとても大切なことです。しかし、もしそれが行き過ぎになってしまい「こうあるべき」ということに縛られてしまうと私たちは律法主義に陥ってしまい、キリストにある喜びが失われてしまうのです。キリスト教世界のいろいろなところに潜む「こうあるべき」は時に人を苦しめるものになってしまいます。  キリストは「自由」をもたらす存在でした。律法学者たちは旧約の律法を正確に守るため、旧約のみならず新たな決...

メッセージ 今を生きる マタイの福音書6章33〜34節

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。マタイの福音書 6 章 33 - 34 節    私たちの頭の中は日々忙しく動いています。何もしていない時間でも、頭の中は過去に移動したり、未来を思い描いたりします。私が思い悩んでしまうのは、今この瞬間ではなく、過去や未来について考えている時です。「ああすればよかった。」「どうしてこんなことに。」という後悔、また「もしこうなったらどうしよう。」という不確定なことに対する不安は、私たちを混乱に陥らせてしまいます。  神様が私たちに示しているのは「今」この瞬間を生きるように、ということです。イエス様はマタイの福音書 6 章において、心配するのをやめるようにと強く語り掛けます。   「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」マタイの福音書 6 章 26 - 27 節   「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」マタイの福音書 6 章 30 - 31 節    旧約時代、イスラエルの民がエジプトを脱出する際食べ物に飢えたとき、神様はマナという食べ物を彼らに与えました。その日必要な分だけが与えられたので、余ることも足りないこともありませんでした。それを人が明日のためにと余分にとっておくとそれは腐ってしまいました。  神様は人が自分で蓄えて安心することでなく、その日その日に必要なものが必ずご自身から備えられることを信頼するように示したのです。    人が何かを失ってから気づくのは、当たり前のようにそれを手にしていた日常です。健康な時に何...

メッセージ 今生きている救い主 イザヤ書9章6-7節

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 イザヤ書 9 章 6-7 節    聖書をはじめて通読したときの感想は「主が生きておられる」という言葉が聖書には何度も登場するということでした。特に、旧約聖書を読んでいるとき、その印象を強く受けました。そして、私がキリストを信じたのも、実際に主が生きているということを肌で感じたからでした。  信仰生活を続けていると、時々「主が生きている」ということを忘れそうになってしまうことがあります。しかし、忘れそうになると、試練の克服やいろいろなことを通して「ああ、やはり主は生きておられるのだ」と思い出させてもらえる喜びの瞬間があります。    主が生きているということを一番実感するのは、人の心に変化が起こる時です。人の心の変化は、この世に起こることの中で最も大きな奇跡だと思います。どんなに言葉巧みな説明で相手を納得させようとしても、相手の心が開かれていなければ、伝えたいことは伝わりません。人が理解しあうこともお互いに理解しようという気持ちなしには起こりません。主は、人の心に働きかけます。主は生きて、主の愛で人の心に変化を起こすのです。    人は皆、主が造られた尊い唯一無二の存在です。しかし創世記を読めば、また生きてこの世界を体験していればわかる通り、人には罪があります。生きていると時には罪によって悲しい経験をすることがあります。歴史やニュースを見ても、罪の結果を目にすることはよくあります。しかし、生きておられる主がいる限り、罪が勝利することはありません。神様の愛は、人の心を変えるほどの強力な力を持っているからです。  人と人との関係は、罪に飲まれてしまうと亀裂が入ります。相手の悪い部分が目につき、相手を恐れ、信頼を失い、裏切るような行動をとってしまう、そのようなことが起こったとき、人と人との関係は崩れてしまいます。しかし、主が心の中で働くと、罪を自覚するように人は促...

メッセージ 真理の父と偽りの父 ヨハネ8章44節

  悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。(ヨハネの福音書8章 44 節) 「中世は悪魔がいた時代である。」 神学校の教会史の授業で印象に残っている言葉です。確か歴史学者の言葉を先生が引用なさったのだと思います。ルターにはこんな逸話があります。聖書研究の際、悪魔が現れたので、インク壺を投げつけ、そのインクの跡が彼のいた部屋に残ったというのです。 この言葉を興味深く感じたのは、このルターの行動を「中世はそのような時代だった」と見做す私達自身が、解釈学的観点から問われなければならないのではないかと思わせられるようなものだったからです。もしルターが現代でこのような行動をしたならば、「狂気」的な人とされるでしょう。しかし、フーコーという哲学者は「狂気」とはある時代から作り出された概念の産物だとしています。 16 世紀、ルターの言葉をただの狂人の言葉ではなく聞く価値のあるものとして大勢の人が見做したこと自体が、それを物語っているのではないでしょうか。また彼の残したものが今なお多くの人から耳を傾けられるものであることが、悪魔と戦った彼がただの狂人ではなく、少なくともローマ書の理解において真理に立とうとした人であることを示しているのではないかと思います。 もし悪魔が現実の存在であるならば、ルターのしたことはまさしく悪魔が憎み阻もうとしたことでしょう。ルターとは袂を分かつことになりますが、同じく聖書に真摯に向き合う姿勢を彼に示したエラスムスの働きもまた悪魔から疎まれるものであったと思います。 信仰は、「どのように世界を見るか」という自分自身のかけている眼鏡についての疑問を投げかけます。キリスト教を価値観の一つと見なすなら、それを取り入れることは一つの眼鏡をかけるのと同じことかもしれません。しかしキリストが真理だと信じることは、私たちが自分のかけている眼鏡に疑問を持ち、それを外すことです。信じることは、現実の世界の本当の姿が、キリストの示した神が創造し聖書に啓示された世界であると見なすことだからです。 「サタン」の存在について、私は神学校を出るまでは深く考えることがありませんでした。しかし、聖書には現実の存在として示されて...

メッセージ 信じるということ 詩篇37:5-6

  あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のようにあなたの正しさを真昼のように輝かされる。詩篇 37:5 - 6    信仰とは、信頼です。私たちが誰かを信頼するなら、私たちはその人の言葉を信じます。信じているならその人の言葉を疑うことはしません。信頼している相手は、自分を大切に思い、自分の幸せを願ってくれると感じます。その人が自分に対して悪を図るとは思いません。私たちが誰かを信頼するならば、私たちはその人の愛を疑いません。  神に対してこのような思いを抱くことが信仰です。信仰は神に対して信頼することであり、神の言葉を信じ、神の愛を信じることです。    物事がうまくいっている時に神を信じることはさほど難しくないかもしれません。しかし、予期せぬ出来事に出会うとき、つらい日常に終わりが見えないとき、神を信じることは試練となります。  聖書を読むと、神に従う者で試練に合わない者はいません。必ず神から引き離そうとする存在、サタンが働き、苦しみを通ります。ダビデ、ヨブ、パウロ、預言者たち……皆が試練を通っています。  私たちも神に本当に出会ったならば、少なからずそのような経験をします。それでも信仰を手放さない人がいるのは、神とともにいる最低な日は、神とともに生きてはいなかった最高な日よりも遥かに素晴らしいからです。  神は全てを益とすると聖書に約束していますが、試練にあっているときにこれを信じることは難しいことです。私はそんなとき旧約聖書の創世記にあるヨセフのことを思い出し励まされます。  彼は兄たちの嫉妬から殺されかけ穴に放り込まれてしまいます。その後商人に拾われ彼はイスラエルからエジプトへと渡ります。そこでも人の悪意により投獄され、長期にわたる獄中生活を送ります。しかし最後には王に仕える立場となり、飢饉に陥ったイスラエルに住む家族らを助けることになります。    ヨセフは人一倍人からの悪意や拒絶を経験していますが、最後にはそれがすべて益となって家族との和解がもたらされるのです。    私たちには人生の先のことは見えていません。今がつらいとき、それがどんな意味を持つのか全くわからない事が多くあります。またそれがいつ終わるのかもよく分からないことも...

メッセージ 信じるゆえに語る 2コリ4:13

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。 コリント人への手紙第二 4 章 13 節    皆さんは説教についてどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。プロテスタント教会の方は礼拝の核になる部分というイメージがあるかもしれません。カトリックの方は、司祭を通して語られる神の言葉というイメージをお持ちかもしれません。ブレザレン系の教会の方、ハウスチャーチ、無教会、オーガニックチャーチ、シンプルチャーチの方は、何か特定の人がする特別なものというイメージは無いかもしれません。説教に対するイメージはおそらく教派によって異なるものだと思います。    私が初めて説教のようなものをしたのは、学生時代に住んでいたキリスト教の寮での朝の集いでした。そこでは学生が順番に聖書から学んだことを語っていました。その後本格的に説教をしたのはミッションスクールでの聖書科の教育実習の際、朝の全校礼拝でした。その前に私はキリスト教の学生団体の主事達に説教の作り方について聞きましたが、皆聞かれるとはじめは少し困った顔をしたのを覚えています。その時はなぜだろうと思いましたが、いざやってみてその理由がわかりました。説教の仕方に決まったセオリーなど無いからです。  その後神学生となり説教学の授業で毎週学生同士長所と短所を言い合うという授業を受けたり、いろいろな教会で説教をさせていただきダメ出ししていただいたりしました。原典から調べたりあらゆる注解をチェックしたり、話し方を研究したり模索していましたが、そうしているうちに自分が人の顔色を窺って語ろうとしたり「努力するほど良い」という考えに陥ったりしているのに気づきました。  高齢化が進んだ多くの教会ではほとんどの方が自分より遥かに年上という状況の中で、経験も浅い自分に何が語れるのか途方に暮れたり、すでに「聖書」があるのに自分の言葉を付け加えるのが無意味に感じることもありました。    神学校を出た後、じっくり聖書を読んで、新約聖書にはあまり礼拝という枠組みでの説教が出てこないことに気づきました。殆ど建物の外で語られています。旧約で預言者が語る神の言葉もそうです。また彼らは原稿を用意しているわ...

メッセージ 愛という注解 1ヨハ4:16

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。 ヨハネの手紙第一 4 章 16 節  今回は、私が聖書理解についてこれまで教えられてきたことをシェアしたいと思います。  私はカトリックの大学と大学院、またプロテスタントの神学校で神学を学びましたが、その際専攻したのは聖書学でした。キリスト教の教派はそれぞれ独自の教理を持っていますが、それはそれぞれの聖書理解によって構築されています。また神学、聖書学には自由主義的か否かといった立場があります。こういった神学の地図のようなものをはじめはあまり理解していなかったので混乱することが多々ありました。それぞれの場所では出発点というか前提条件となるもの自体が全く違っていて、一歩外に出ればそれとは異なる世界が広がっているとしても、その前提条件自体を問うことはできないような力を持っていました。私は異なる考え方を目の当たりにし戸惑うのと同時に、根本的に、また本質的に同じものは何だろうかとも考えさせられました。  神学や聖書学を学ぶと、教理や歴史、聖書の時代の資料や哲学、教会と関わってきた哲学、写本について、また本文批評、聖書原語、解釈学の講義を受けることになりました。神学の地図のようなものをおぼろげながらも把握しだすと、とても興味深く感じました。私が学んでいたことはとても魅力的で、知ることが楽しくて仕方がなくなりました。しかし次第に、「聖書をもっと知りたくて学んでいるのに、なぜか聖書と遠くなる気がする。」という気持ちも抱くようになりました。聖書の矛盾点や写本の信憑性、新しい学説、新しい解釈、神学のトレンドなどに焦点を当てて学んでいるうちに、聖書を疑う気持ちも出てきました。何度か聖書のあるテーマについて徹底的に調べることに努め論文を書きましたが心のどこかで「私の結論は正しいのだろうか。」という気持ちが拭えませんでした。学んでいた学校に関わらずそう感じました。  次第に私は啓蒙主義以前の聖書理解、教父や宗教改革者たちの書を読むのが好きになりました。それらを読むと心が燃えたからです。そして、それらの聖書解釈は教会史と深く結びついていることも興味深く思いました。心が燃える聖書解釈は、歴史を動かす力を持っていたのです。  しかし、そのように聖書...

メッセージ 終わらない希望 ヨハネ11:1-4

さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 ヨハネの福音書 11 章1〜4節   今回は新約聖書にあるヨハネの福音書から、イエス・キリストが死人であったラザロを生き返らせた時の出来事に目を向けたいと思います。連日のニュースから分かるように、今、私たちは楽ではない時代を通っています。そこで、イエス様は、ラザロの病気や死にどのような結末をもたらしたのか、それをどのように用いるかに注目してみたいと思います。私たちが神によって歩むとき、逆境において、この聖書個所から得られることと同じことが起こるからです。   イエス・キリストは、ベタニヤという場所に住んでいた、ある三人の姉弟を愛しておられました。一番上のお姉さんはマルタ、妹のマリヤ、そして弟のラザロです。この三姉弟は、イエス様と親しい者達でした。   あるときラザロは重い病気となります。それゆえこの姉妹は人を遣わして、   「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」   とイエス様に伝えました。そのときイエス様がお答えになったのが、この言葉です。   「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」   「この病気は死で終わらない。」これは一体どういうことでしょうか。   キリストはラザロが病んでいると聞いてからもそのときいた場所に二日とどまりました。それから、ラザロたちのいる場所へと向かいました。そこではキリストを憎む者たちがキリストを殺す計画を立てていましたが、それを知ったうえで、ラザロのもとへとイエス様は向かったのです。   イエス様が到着すると、ラザロはすでに亡くなっており、姉であるマル...