高校礼拝メッセージ①ヨハネによる福音書11:1-4


ヨハネによる福音書11:1-4



 1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人  であった。
2このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であ ったのは、彼女の兄弟ラザロであった。
3姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、」ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。

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  おはようございます。聖書科の教育実習始がまって一週間ですが、皆さん一人一人が神様の素晴らしい栄光を顕していることに深い感動を覚えつつ一日一日を過ごしています。皆さんとの出会いは、神様がずっと前から用意してくださっていた愛に溢れたご計画であることを感じています。
  皆さんの姿を見ると自分の中学高校時代が思いだされます。私もミッションスクール出身で、毎日朝礼で聖書を読み、聖歌を歌っていました。その頃はそういったことの大切さにはあまり気づくことなく生活していたのですが、こうして日々神様の言葉を聞き、それを知らず知らずのうちに自分の中に蓄えていったことは、後々になって素晴らしい光をもたらしました。


高校を卒業してから、私たちは様々な試練に出会っていくことになります。生きていくとはそういうことです。進路に悩むことや、家族を離れて大学生活を送ること、大切な人が亡くなってしまうこと・・・・・・そうした時に自分の中で蓄えられた聖書のみことばは、イエス様の言葉となって孤独で悲しみに打ちひしがれた私たちに語りかけてきます。私がどうして聖書科で教育実習を行っているのか、どうして皆さんに神様のことを伝えたいと感じるようになったのか、それは神様がどのような方かを真実に知った体験があったからです。今日はそのことを少しおわかちしたいと思いますが、まず聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

  4節「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」

 この言葉はどういった意味を持つのでしょうか?

  イエス様は、ベタニヤという場所に住んでいるある三人の姉弟を愛しておられました。一番上のお姉さんはマルタ、妹のマリヤ、そして弟のラザロです。この三姉弟は、他の福音書においてもしばしば聖書に登場するイエス様と親しい者達でした。

 
  ルカによる福音書、そしてマルコによる福音書には、イエス様が過越しの祭りの前にベタニヤに訪れた際、イエス様の頭に高価な香油を注ぐ女性が登場します。この女性は涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛でそれを拭きました。状況を想像すると「なんだかすごいな・・・」と思ってしまいますが、それほどまでしてついていきたくなるお方がイエス様なのですね。
  イエス様の愛を本当に知ったとき、大人であっても涙を流して「イエス様・・・・・・」と語りかけたくなってしまうことは、聖書にかかれている時代も、今現在も、これからも全く変わらないことなのです。

ヨハネの11章2節を読むと、その女性はこの三人の姉弟の一人、マリヤであったことがわかります。またその続きには、マルタとマリヤの大好きな弟ラザロが病気であったことが記されています。ラザロはこのあと亡くなってしまいますから、それは本当に大変な病気であったことがわかります。

  そして、この姉妹は人を遣わして、
「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」
とイエス様に伝えました。そのときイエス様がお答えになったのが、この言葉です。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」

  この「死ぬほどのものではない」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では死に至るものではない、死(という方向に)向かうものではない、という意味の言葉でかかれているので、口語訳以外の聖書では、「死で終わるものではない」というふうに翻訳されているものもあります。「この病気は死で終わらない。」これは一体どういうことでしょうか?イエス様の仰る言葉はいつも不思議な響きをしていますね。

  イエス様はラザロのことをきいてから、別の場所に滞在しておられたにもかかわらず、自分を殺そうとしているユダヤ人のいる場所に、もう一度戻っていきました。そこに友であるラザロがいたからです。

 
 イエス様がつくと、ラザロはすでに亡くなっており、姉であるマルタとマリヤは身が裂かれるほどの悲しさに苦しんでいました。「あなたがおられればわたしの兄弟は死ななかったでしょう。」というマルタに、イエス様は「わたしはよみがえりであり、命である、私を信じる者は、たとい死んでも生きる」と仰いました。

 
  イエス様は死んだラザロを目の前にし、涙を流されました。神であられると同時に人であられるイエス様は、私たちの悲しみを知っておられ、涙をながすお方なのです。ラザロを目の前にして涙を流すイエス様を見て、ユダヤ人たちは言いました。

「ああ、なんと彼を愛しておられたことか。」

イエス様はラザロのお墓に入られると、もうラザロが腐っていると伝えるマルタに「信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに行ったではないか。」と語りかけました。そして神様に向かって「父よ、私の願いをききいれたことを感謝します。」といい、それはそばにいる人が、自分は神様からつかわされたことを信じるためであることを示されました。そして「ラザロよ、出てきなさい」と仰ると、死人であったラザロは墓の中から出てきて、それを見た多くのユダヤ人はイエス様を信じることになりました。

この出来事を通して、イエス様はご自分をつかわした神様が死に打ち勝つ方であることを示されました。イエス様は永遠の命をもたらすために、この世にこられました。自分の一人子を与えるほどに、それほどに神様は私たちを愛しておられました。そして神様の愛は、私たちのどんな試練も、病気も、死も、悲しみも、素晴らしい栄光へと変える力を持っておられます。


私が大学二年の時、私の母はある病気で入院することになりました。私の実家は鹿児島県にあるので、東京の大学に通う私は母の最もつらいとき、そばにいてやることはできませんでした。しかし、クリスチャンである私の母は、病気のことを私に伝える際、電話口でこう言いました。

「ラザロの死の箇所、ヨハネ11章4節『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』という箇所が与えられたんだよ。」
 
入院中の母は今まで見たことのないほど明るく過ごしていました。私はそれを見て、家族である自分以上に、母の試練のとき最も近くにいるのはイエス様であることを知りました。母は大きな手術を受けましたが、その日の夜私は一人で母とともに病室に泊まりました。自分を今まで守ってくれていた元気な母が目の前で無力な状態で倒れているのをみると悲しくて、機械の音が響く病室で泣きながら過ごし、一睡もできませんでした。

しかしその後で私は、その日私の一番近くにいたのも、やはりイエス様であったことを知ったのでした。

 神様の愛の深さははかりしれません。この世で最も大きな愛は形をとりました。その愛は肉をまとい人間となりました。人の子となったその愛は、私たちのもとにこられ、イエス・キリストとして顕れたのです。

 皆さんは、私よりもっとつらい経験をしたことがあるかもしれませんし、それがこれからおこるかもしれません。しかし、私たちの試練は死で終わることはありません。イエス様は私たちが一人で歩くことができないときに、私たちを背負って歩んでくださり、神様の愛は苦しみをすべて栄光に変えることを、どうか覚えていてください。


お祈りいたします。

愛する天のお父様、あなたの御名を賛美します。

神様、あなたの一人子を、私たちの類なき友として与えてくださったことを心から感謝いたします。どうかこの学校の中に、神の御国が、あなたの国が広がっていきますよう、お祈りいたします。

 神様、ここに大きな苦しみと闘っている者がいましたら、あなたが励まし、共にいてください。私たちが人生で出会うすべての試練をあなたが栄光へと変えてくださることを、あなたの真実の愛を知る機会として用いてくださることを感謝いたします。

 今日一日も、そして近づいている運動会も、あなたが中心にいてくださいますように。すべての者が喜びをもって過ごしていくことができますように。

 言い尽くせません感謝と願いを、私たちの主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 アーメン








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