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聖書原語について

これまでの学びの中で、聖書原語については多くを考えさせられました。 勿論原語を知ることで得られるものは大きいです。しかし、キリスト教や神学の世界において、時に原語はステータスや特権のようなものとして捉えられているような印象を受けます。聖書原語は一定の時間を割くことなしに習得するのは難しいので、聖書をそれなしに正確に理解することができないとするならば、聖書はとても狭い世界のものとなってしまいます。行き過ぎるとせっかくルターの時代から聖書翻訳によって多くの人が自由に読めるようになった聖書を、また狭い箱に押し込めてしまいます。もちろん現代語と古典語には隔たりもあるのですが、もし原語に精通しているほど聖書をよりよく知っているという主張が正しいならば、理論上はヘブライ語とギリシャ語のネイティブが最も優れた聖書の理解者ということになります。 優れた神学者であったアウグスティヌスは、一説によればギリシャ語は得意ではなくヘブライ語は読めなかったといいます。 勿論原語を学ぶのは大切なことですが、聖書理解の一つのツールであるということを超えて原語に固執する必要性は無いのではないかと思います

教会で扱う個人情報の問題

 2021年2月にFEBCSprout!というラジオ番組において、教会で被害を受けたセクシャルハラスメント、またそれによって教会を出なくてはならなくなった体験についてお話ししました。放送後内容の補足として描いた文章を以下に掲載します。セクシャルハラスメントに限らず、特定の人物に対する攻撃的な行動などすべてのハラスメントを防止する意味でとても大切なことだと思います。牧師には男性が圧倒的に多いのでなかなかハラスメント被害者の受ける恐怖感が理解されにくい現状があります。意図せず加害者の行動を助長させる行動を牧師自身が行っている教会が数多くあります。このメッセージが特に男性の牧師に届くことを強く祈ります。ここに書いたことに加えて初めて教会に訪れた際よく住所·年齢·生年月日·連絡先などの個人情報を半強制的に書かせるのも危険な因習ではないかと思います。また、女性の神学生には牧師がセクシャルハラスメントやパワーハラスメントを行うことも少なくないです。単立や小さな教団は特に現状改善システムが無いです。教派を超えて被害者を守る必要があります。こういった問題を一人一人にご理解いただけることで状況は変化します。     今回の放送で補足でお伝えしたいのは、牧師先生達は、自分の牧会する教会の方々の連絡先を本人の了解なしに他の教会員に伝えないでほしいということです。 特によっぽどのことが無い限り女性や子供の連絡先を安易に他人に教えないでほしいです。 気をつけていないと、メール転送、メールの一斉送信、ライングループなどで簡単に伝わります。   それが犯罪に加担する可能性のある行為になることを知ってください。     今回の放送でお話した事例は、教会に通うことになる直前にストーカー行為で警察沙汰になった方と同じライングループに牧師が私を入れてしまい、連絡先が分かってしまったことや、教会で全員が全員と握手するような習慣が半強制で行われていたことが原因となりました。   私がセクハラについて牧師に相談するまで、その方にその過去があったことは知らされませんでした。もし事前に知っていれば同じライングループに入るのを承認しませんでしたし、絶対に手を握らせませんでした。 このような事が引き金として作用してしまいました。 危うく次のターゲットになるところでした。     ...

メッセージ 引き離せない愛 ローマ人への手紙8章39節

  高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:39   自然災害は、多くの人が心を痛める出来事です。   2011 年、東北で大きな地震が起こった時のことです。テレビを通して津波の惨状を目の当たりにした私は大きな衝撃を受けました。  その後、私はカリタス・ジャパンというカトリックの救援活動団体を通して東北へとボランティアに行きました。  そこで目にした光景は、やはり衝撃的なものでした。崩れた建物、積み上がった車など、悲惨な光景が広がっていました。傾聴のボランティアでいろいろな方のお話を伺うと、ますます心が痛みました。がれき撤去や誰のものかわからず集められた写真を綺麗にする作業も、やりながらいろいろな思いに駆られました。   ボランティアをしながら、神様のなさることへの疑問が自分の中でふつふつと沸き上がりました。自然災害は、戦争などと違い、人の過ちで起こるものではありません。それなのに、絶大な被害を引き起こし、多くの人を悲惨な状況に陥れてしまいます。 そこに滞在しているうちに、私の中で「神様がわからない」という思いが大きくなっていきました。 そしてある時、外に出て一人で「神様どうしてですか。」という祈りをしました。   その日の夕方、カリタス・ジャパンに協力している教会でミサが行われることになっていたので、私も出席することにしました。その時に聖書朗読で読まれたのは、次の言葉でした。     だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦痛ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。  こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。  私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ...

メッセージ 私を知っている神 詩篇139:1-6

主よ あなたは私を探り、 知っておられます あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知りぬいておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。 詩篇139 1-6節 自分のことを一番知っているのは誰でしょうか。多くの人は自分を一番知っているのは自分であると考えるかもしれません。聖書の答えは違います。もし私以上に私を知っている人がいるとしたら……今回は、その答えを示した箇所である詩篇139の冒頭にスポットを当てみたいと思います。 自分のことを一番よく知っている人間は、紛れもなく自分です。しかし、私自身、時々私の中に自分の知らない領域があることに気づかされます。物心つく前の記憶は勿論曖昧ですし、数年後、数十年後自分がどうなっているのかも確実なところは分かりません。また、日頃自分が自覚せずに無意識のうちに感じていることも多くあります。 聖書は、世界の創造者は神であると伝えています。私たちを創ったのは、聖書によれば、神です。例えば私たちが何かを作るとき、私たちはその作品の材料、性質、目的、またその作品の限界をよく知っています。もし神が人を創造したのであれば、神は誰よりもそれを熟知しているはずです。 私が大学生だったとき、詩篇139の言葉が強く心に焼き付けられる経験をしました。 私の仲の良かった同じ年の友人が、突然亡くなったという知らせを受けた時です。私はその子が大学に入学する前に色々な未来を思い浮かべていたことを知っていたので、その知らせは本当にショックでした。その頃、当然のように将来のことを考えていた私は、「将来」とは人にとって不確かなものであることを感じました。しばらくその子の死を私は全く受け入れることができませんでした。生きていれば当たり前のように経験する多くのことを知らずにその子は突然この世から去ってしまいました。私にその子の死を伝えてくださったご家族の声は、言葉にならないほど苦しそうでした。 私はその時、神様のした事に対して全く納得がいきませんでした。なぜこんなことが起こったのかと神...

メッセージ 蘇られたキリスト ルカの福音書24章27-34節

  それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。 ルカの福音書 24:27-34    主のご復活おめでとうございます!  私は小さいころから、エマオへの道行きを描いた有名な絵が大好きでした。おそらく目にしたことのあるクリスチャンも多いと思いますが、森の中の道を二人の弟子とイエス様が歩く後姿が描かれた絵です。幼い頃、福音をまだ把握する前から、この絵をみると希望が湧いてきて、胸が熱くなりました。  福音書の終わりはどれも、キリストの十字架刑の後、主の復活が起こったことを語っています。キリストは死ななかったのです。死を経て蘇ったのです。素晴らしいハッピーエンドです。このハッピーエンドは他人事ではなく、私たちの物語へと続きます。なぜなら、同じ復活の主が今生きていて、エマオで主と出会った人々と同じく、私たちも主と語り合うことができるからです。    先日、辛いことがあったとき、眠ることができず聖書を夜な夜な読んでいました。ちょうど読んでいたのは使徒の働き(使徒言行録)でした。私の心はなかなか晴れ晴れとせず安心して布団に入る気が起きなかったのですが、突然一節から目が離せなくなりました。 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」使徒 9:31    それを読んだとき、突然その状...

メッセージ 希望の計画 エレミヤ29:11

  「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節  今回の聖書箇所旧約聖書のエレミヤ書 29 章 11 節は、私の大好きなみことばです。この言葉は、私たちの将来が希望が満ち溢れていることを約束する言葉です。この言葉を握りしめるとき、くじけそうなときも目の前の状況ではなく、神に目を向け、再び立ち上がることができるのです。 これは旧約聖書に登場するエレミヤという預言者の言葉です。聖書に書かれる預言は、「預かる言葉」と書きます。預言者とは、神の言葉を預かって人に伝える役割を負った人のことです。  エレミヤの生きた時代は、当時二つに分かれていたイスラエルの南ユダ王国がバビロン捕囚にあった時期でした。ユダヤ人たちはバビロニアの占領によりバビロニアへの強制的な移住を余儀なくされたのです。 エレミヤは、滅びゆく国の姿を目の当たりにした人でした。彼はイスラエルの民がバビロン捕囚によって苦しみの中にたたされたとき、共にいて、主の言葉を伝え続けました。エレミヤの預言は、一つの偉大な神の賜物によって、支配されていました。それは希望です。 エレミヤは背教の罪を犯した民に神の悲しみを伝えると同時に、国が滅ぼされバビロンに捕らえられていった者たちに、希望を伝え続けました。彼は民に、捕えられた先で、畑を作り、家を建て、子供を育てるよう指示しました。エレミヤは苦しみの中でも主により頼めば心の平和を得ることができることを示しました。 神はユダヤの民をバビロンから再び救い出すことを約束していました。そのようにしてエレミヤが捕囚の民に希望を語ったことばが、はじめに書いたエレミヤ書 29 章 11 節のみことばです。 「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 将来に向けて、私たちは心にいろいろな計画を思いめぐらします。しかし、実際のところ人には一瞬先のことさえわかりません。 人の歩みを確かにするのは、ただ一人の方、主なる神のみであることを聖書は伝えます。エレミヤはエレミヤ書 10 章 23 節でこう語ります。 「主...

「完璧な家族」という偶像

(※私の所属もカテゴライズすれば福音派的なので、内部からの批判として書きました。以下の文章にあてはまらない福音派の教会やクリスチャンも沢山いらっしゃいます。) 教職に就こうとすると如実に感じるのは、福音派には概して未だ男女不平等な性質が多く残っているということです。神学校でも外向きにはそのような問題に取り組んでいるように見せかけても、パフォーマンスだけでその内実は全く伴っていないことを何度も感じました。そのことと深く関係しているように感じるのは、福音派が抱えている「完璧な家族」への偶像です。   「完璧な家族」に対する偶像は保守的なキリスト教との深い関わりの中でとても考えさせられる問題です。 勿論例外も多々ありますが、保守的なキリスト教の中で、まだ学生のころから年齢にこだわり、年上の女性を蔑み、年齢を重ねることに恐れを抱く女性をとても多く見ました。彼らは神の与えた自分の本当の価値に気づくことのできない、女性に賞味期限を突きつける因習的な男尊女卑の考え方を刷り込まれた犠牲者です。聖書ではなくその非聖書的価値観に支配されているのです。そのような人たちは皆半ば焦燥感にかられるように結婚や出産に邁進しています。その背景には、福音派において「完璧な家族」が偶像化されていることがあります。 「夫婦ともにクリスチャンで、子供や孫(子供のころに洗礼を受け教会に熱心に通うクリスチャンや献身者であることが望ましい)のいる仲の良い家庭、牧師家庭であればなお良い」というステレオタイプがその世界で最も推奨されるあり方となってしまっているのです。   神の創造物である人間に「欠陥品」など本来一人もいないはずですが、そのステレオタイプに当てはまらなければ例えば次の例のように「欠陥品」として扱われることがあります。  保守的なキリスト教において離婚は異様なほど嫌厭されます。私は保守的なキリスト教の学生伝道のための団体で働いていた方が離婚を考えていることを理由にその団体を「学生によくない影響を与える」として「穏便に」辞めさせられるのを見たことがあります。その背景には配偶者のモラルハラスメントがあったにも関わらずです。最も人が助けてほしい時に、何てキリストとかけ離れたことをする組織なんだろうと感じてしまいました。そんなふうに血も涙もないようなことをする組織で彼ら...